雑誌「プロセッサ」の「忙中閑話」

 CopyRight (C) 1985,1986 Dr.YIKAI Kinio

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 以下の内容は,技術評論社から出されていた雑誌「プロセッサ」誌の創刊号から隔月刊で6回限りで連載した「忙中閑話」を再掲したものである。内容は古いが今読み返して見ると,まだ40代初めの生意気だった頃ではあったが,今よりもましなことを語っている。
 なお,雑誌に連載した原文はカタカナ語を使っているが,技術用語は基本的に英文表記に改めた。さらに,明らかな誤字などは改めた。また,雑誌では難しい読みにはルビが振ってあったのであるが,そのほとんどをHTML file形式の都合で削った。また,註と強調はこのHTML fileで加えたものであり,原文にはない。
 このsiteに記事を転載するに当たっては,技術評論社から快諾を得たので,ここに謝意を表する。
2004年7月17日 Dr.YIKAI
1985年5月創刊号 p126 杞人憂天
1985年7月号 p111 青い鳥
1985年9月号 p112 趨勢と予測
1985年11月号 p143 丁稚奉公
1986年1月号 狗不理
1986年3月号 碩学

1985年5月創刊号 杞人憂天(註1)

 Software crisis(危機)が喧伝されて久しい。増大するsoftware需要に対し,それに応ずるprogrammer人口の供給が追い付かないということを骨子とする議論である(註2)。Franceあたりでは,このため小学生からcomputer教育を試みようとしているし,わが国でも,同様な主張が一部ではなされている。
 ところで,ここで論じられているsoftware需要とは一体何を指しているのであろうか。たしかに,一見programのcodingに対する需要は多い。が,これを分析してみると,OA的分野における,user向け処理programのgenarateなどのように,自動車の新車の納品整備と同じlevelの仕事まで,software需要として含まれている。また工業的・科学的応用分野では,本来,それぞれの分野の専門家が自分で行わなければならない,対象物の分析のようなことまで,programmerに求めたりする傾向がないわけではない。純粋にprogrammingの技術を必要とする範囲に限定すれば,かなりの成長率はあるにしても,決して危機と言えるようなことは発生しないと思われる。なぜかと言えばprogrammerの不足が危機を招くようなpaceで,そのprogramを必要とする外界の環境が増大または変質することは,より不可能に近いことだからである。
 では,software危機を唱えると,一体だれが得をするのであろうか。またそれに乗せられて,中途半端なprogrammerにならないためにはどうしたらよいのであろうか。
 世のマスコミは株屋と同じで,情報を流して,それを煽ることによって生きている。やれmicro electronicsとか,やれbionicsとか,重厚長大時代は過ぎ去って,軽薄短小になったとか,soft化の時代とかである。“短小”とか“軽薄”などという言葉が,いつの間にか誉め言葉に化けてしまった。雨月物語にも,“青々たる春の柳,家園(みその)に種(うう)ることなかれ,交わりは軽薄の人と結ぶなかれ。”という文章があるように,人類は古来軽薄なものは近づき易く,去り易いとして,避けるように勉めていたようである。しかしこのようなanachronism的なことを言っていたのでは,現代社会から落後すると脅かされ,止むなく,programmerへの途へと歩みを進めることになってしまう。
 Software化傾向のお先棒を担いで急遽programmerになってしまうとどうなるか,一番運が悪い人は,何も系統立った教育や実習,OJT(On the Job Tranining:実地教育)なしで,BASICなどを使って事務用のapplication programを作らされる人である。この路線は,BASICという言語の簡便性もあって,実に容易に“軽薄”と“交わり”を持つことができる。しかしこの初心者markで国道を闊歩するようなことで,softwareが何であるか,解ったつもりになりなり,それなりのprogramが作れて,上司から認められたりすると,後は本人のみが知らない地獄に陥ることになる。
 間違ってprogrammerの路を進みはじめた人は,早くこの危険に気付いて,自分で這い出さないと,すぐ手遅れになる。二つの徴候がこの危険を知る手立てとなる。ひとつは,自分の作ったBASICのprogramで十分役に立っていると思った時,もうひとつは,勉強は大切だけど仕事も忙しいし,勉強会などに出席していたら遊ぶこともできないと考えた時である。行動しなくても,考えただけで,陥穽の横に立っていると見做してよい。
 Programmerとして,純粋にprogram作りを職業としようと考えるなら,マイコン(註3)だけから目を離して,computerのsoftwareをどう作るかという,software工学的な勉強を大いにやってほしい。自分は純粋なprogram作りだけではないと主張する人々は,program作り以外の専門家になることをお薦めする。なぜなら,programを本職として,かつ他の分野で飯を食っている人より秀でるのは容易ではないからである。
 Programも他のすべての学問や技術と同じく,系統的な流れと手法が存在する。ただ,現時点では同時代的に発達を遂げているので,一義的な体系付けがなされていないだけである。職業上,数多くのprogrammerや自称SE(system engineer)と会うが,自分自身の中で,自分流の体系付けさえできていない人がほとんどである。10人に1人ぐらいしか,softwareが解っているという人物には,お目にかかれないのである。
 体系付けは年齢的に早く限界が来る。成長が停止する25歳前後で基礎が決まるという考えもある。早く抜け出さないと,35〜40才でお払い箱となってしまう。本当のsoftwareの危機は,この永久若葉markのprogrammerが中高年化しだした時なのである。“重厚”なprogrammerへの路を急いで模索しなくてはならない。

註1:
 「杞人憂天」は普通は「杞憂」と略して,絶対に起こらないことを心配するという意味に使う。昔,杞の国(今の山東省あたりにあった)の人は天が落ちてこないかと毎日心配したという中国の古代の故事(ものがたり)から出来た成語。

註2:
 先般,経済産業省は「組込みソフトウェア開発力強化推進施策 」というものを打ち出して,この方面の技術者の不足と育成の必要性を訴えている。十年一日どころか廿年一日である。

註3:
 この文章が書かれた頃は,マイコンという言葉は今のように組み込み用のsingle chip CPUを指してはおらず,パソコン化する前のmicro processorを使ったcomputer全般を指していた。


1985年7月号 青い鳥

 毎年五月になると,青い鳥を求める人が発生する。いわゆる五月病という病気の一分野に属する。五月病事態は,その発生原因,症状とも多岐にわたるが,この青い鳥病も病根はかなり深い。五月病の発生も五月に限らなくなってきている。昔から三日三月三年といい,人間は何等かの固定的な環境に入れられると,“あきらめ”という薬を嚥むまでは,あがくものである。
 入社三日目に会社を辞める気になるのは,新入社員のほぼ過半であろう。しかし,実行する人は,極く少ない。三ヶ月目に消える人は今までの経験からすると,女性や非専門職の人に多い。この段階までは,実は企業にとっても,本人にとっても実害はさほど大きくないのである。病気になるのは早いほど,軽症で済むのである。
 この雑誌の読者にとって,三日の口と三ヶ月の連中は討論の対象ではないことは明らかであろう。問題は三年目に発病する人達である。症状の多くは,給料が安い,上司や同僚が面白くない。仕事が単調である,きつい,方向ちがいだという主訴で顕れる。女性問題が起きてtroubleになったという人もいる。しかしこれは表面上の理由で,本当の理由は心の中にある。すなわち,“飽きた”のである。
 昔の人は“商いは倦きないことだ”と言ったくらいで,もともと仕事自体にどんなに刺激的で斬新なとこがあっても,人間は同じ状態に永く居ることを生理的に拒否するものであるので,三年も経つと転進したくなるのである。今は終身雇用も有名無実となってしまったので,30才前の転進はおおいに行うべきである。大企業でも人事交流が盛んな所では,同一社内での転勤によって,一応この青い鳥病の発生に対処している。問題は固定的人事配属の企業である。中小企業は会社自身が転進してしまうことが多いので,固定された人間関係以外は,意外と飽きることが少ない。
 さて飽きるとどうなるか,隣の芝生が青く見えるいうわけで,青い鳥病にかかるのである。たとえ青い鳥がいなくても,20才代では2〜3年で職場を変えるのはよいことである。この時漠然と青い鳥を求めてはいけない。白い鳥でも赤い鳥でも,何か現状よりどこかひとつだけ,よくなったと思う転進をしなければいけない。この良くなったという評価は,主観ではだめである。友人,先輩などが見て,納得するだけのことがないと,転進は成功とはいえない。すなわち不等号が大きくなる向きに動くべきであるし,この不等号は万人が認むるものであるべきだと言うのである。
 この転職によって,技術者として置かれる位置もそのたびに異なってくるし,まったくちがう分野の技術に触れることも多い。ここで青い鳥病的にbestを求めないことである。Betterを求め。次に与えることも知らねばならない
 30才までに自分の技術者として生きる基本方向を確立するためにうろうろするわけなのである。問題は30才を過ぎても同様に心がふらつく人達である。35才になるとほとんどの人は新しい考え方や理論を勉強したり,受け入れたりするのに抵抗が多くなる。数式などすぐ忘れてしまうわけである。40才になるとほとんど過去の蓄積のみでしか技術的な仕事はできない。多くの企業が一般的な中途採用の技術者の年齢制限を35才としているのには,この点での年齢限界を意識している部分もあると思われる。
 とすると,30才過ぎの青い鳥は,それがどんな色であっても一羽しかいないということになる。それ以降の転職は青い鳥を求めてではなく,単に配転に応じたり,関連企業に出向したりということになる。ほんの一部の人だけが,middleやtopの引き抜きや天下りという陽の当たる道を歩むだけである。
 では,30才前後の最後のchanceに貧乏くじを引かないためにはどうするか。まず一にも二にも基礎力である。数学や物理だけではなく,国語や英語なども重要である。この基礎力は,35才の技術定年を5年も10年も伸ばしてくれる。基礎力は成長の停止する25才位までに身に付けておきたい。次に30才までは何をしてもよい。2〜3年ごとの転職を含めて,幅広い考えと人脈を作っておく。10年後に役に立つ友人を作ることである。
 専門技術は時々刻々と陳腐化していくので,考え方さえわかっていれば3ヶ月でその時点の最先端の80%までは到達できるので,心配はまったく不要である。技術などしょせん人間が考えたことなのであるから,解らないはずがないと,たかをくくればよいのである。
 35才までは,何かひとつのprojectを自分が中心となってやりとげることである。これを通じて,いままでの基礎力や人脈,考え方などが集大成されて,いわゆるsystem思考が身に付く。そうなれば定年突破である。あなたは運がいいと,高給で引き抜かれるかもしれない。
 ところでこの世は運が5分,努力が3分,天分は2分である,自分の才能に溺れないで,努力しながら待つことしかない。まったく技術屋とはつまらない職業だなあ !?


1985年9月号 趨勢と予測

 世の中は,一度その方向が決まると,なかなか変更ができないのが常である。戦前の軍部のように,なにか思いこんでしまうと大局的に物を見ることができなくなってしまい,ついに全Asiaを巻きこんでの戦争という不幸を招いてしまう。戦争を正当化したり美化したりする向きもあるが,実際には多大な被害を蒙るのは,なにも責任のない一般の大衆であり,戦闘員たる軍人は身を守る武器を持っていたりするので,部分的には自業自得であるところもある。
 この戦争に雪崩れ込んだ世の中の動きは,その場に立たねば到底理解し得ない勢いであり,反対どころか戦争遂行に消極的なだけでも,非国民と言われ特高や憲兵に拷問された。それは政治家や軍部の強圧だけで方向付けられたのではなく,世の中の趨勢が“聖戦”へと向いていたからとも言えよう。
 物事の流れは,このように趨勢がかなり支配している。この向きを自分に都合のいいように変えることができれば,商業的だけではなく,政治的さらには学問的にでも成功する事は間違いないと思われる。もし趨勢の決定に力を及ぼす事ができなくても,他人より先に流れの方向が見えれば,労少なくして得るところ大である。
 8mm videoが開発されて,ソニー対松下のvideo戦争はVHS陣営の有利のうちに終結しつつある。ソニーが家庭用のvideoを開発した時,世の中はvideoというもの自体を必要としていた訳ではない。そこでソニーの採った作戦は,技術の公開とvideo softwareの作成であった。しかしソニーは技術に自信を持ちすぎていた。公開した技術をもとに全世界がβ方式へ流れると考え,営業上および品質上の努力が不足した。その間,後発makerであるVHS陣営はvideo softwareの量産と販売力という作戦で,技術的には優れた手法であるβ方式を敢えて採用せず,世の中の趨勢を賭けて争った。結果は明らかであるように,同一水準のtapeでは画質が劣り,tapeのsizeも大きいVHS方式が,本質的には意味を持たないvideo tapeの流通の可能性と言う利点で趨勢を得た。実際には売上げを伸ばしたいsoftware提供業者からはβ,VHS両方のtapeが提供されたことから,この利点は本質的ではなかったと言える。
 ところで,趨勢が一旦決した後はいくらじたばたしても,これを変えることは非常に困難なことである。また,趨勢を決めるのは必ずしも客観的に勝れている要因によるだけではなく,理不尽な要因が多いので,これを見極めて予測するのは大変なことである。
 Video戦争の次はfloppy戦争に突入しそうになったが,これはあっさりと勝負が付いた。かなり多くの人は,videoの余勢を駆って松下groupが,またもや勝利を収めるであろうと予測した。だがこの人達は,文部省的な歴史の勉強をし過ぎたようである。歴史に学ぶという姿勢は正しいが,硬直した歴史観を持つと却って世の中が見えなくなってしまうものである。
 では何故3.5 inchが3 inchより世に受け入れられたかと言うと,理由は簡単である。同一品質の媒体と同一水準の技術で3.5 inchのほうがほぼ2倍の容量が得られるからである。ある人はβgroupは技術的に信用できないと言った。また別の人は,また負けると困るから3 inchに参加する企業が多いだろうと考えた。これらの予測は,一面的には正しい。しかし,videoにおける趨勢の決定者とfloppy diskでの採用権者との本質的な差異を見のがしては,この予測は成り立たない。すなわち,前者は一般の大衆であるのに後者はその方面の専門家なのである。単なる風潮だけで,自分とその企業の将来を方向付けるほどばかではない。あらゆることを考慮に入れた結果3.5 inchを採用した企業が多かっただけである。
 しかし,これとても趨勢の大波に呑まれていることには間違いない。技術的な判断のもとにAmericaのmaker(註1)が3.5 inchを採用したのを切っ掛けに,一瀉千里に草木も靡いてしまったのが実情である。
 ところで,話題をelectronicsに限って,まだ決着が付いていない物を探して見よう。ICではTTLがTI groupのALS/AS seriesとFairchildのF seriseが争っている。日本のmakerは現状ではTIの後を追っているが,最終的にはCMOSのHC/HCT seriesとの整合性で決まると思われる。大容量(5〜10MB)floppy diskはまだ製品が出揃わないので,1〜2年後には趨勢の予測の対象になるであろう。Printerはlasar式と液晶式の静電printerがこれまた1〜2年後には激しく争うであろう。(註2)
 とにかく製品の供給maker側は,生き残りを賭けて必死に戦っている。Userとしては,やはり生き残る物を予め予測して採用しなければならないので,技術者としては頭が硬ければ選択を誤るし,大勢に流されているといつまでも後悔する羽目になる。技術者個人としての生き残りを考えると,大局から物を見る目を養うしかなさそうである。

註1:
 IBMのパソコンは当初5 inchのfloppy diskが付いていたが,5 inchと同じ以上の容量があるということで,3.5 inchに移行した。
註2:
 これらの予測はすべて外れた。すなわち,別の競争品が出てきて,争い自体に決着が付いてしまったのである。WindowsとLinuxの争いもそのような決着が付く可能性があるかもしれない。


1985年11月号 丁稚奉公

 暑い夏が過ぎた。今年はICを中心としたelectronics産業の先行きが暗いというので,稼働率を下げるべく,比較的長い夏休みが実施された。エアコンがある現代に,暑いからと言って夏休みがあるというのは,1970年頃までの実態を思い出すと,昔日の感がある。
 江戸時代から明治頃までは,夏休みはおろか,週休さえなかった。商工業者のところで働く者にとっては,正月とお盆の薮入りだけが休みであった。当時は,独身者は基本的には住み込みで勤務した。商店では,丁稚・小僧と呼ばれた平社員である。役付きである手代・番頭になって,嫁さんをもらうと,長屋に住んだり,一戸を構えたりした。
 工業の分野でも同じで,丁稚・小僧が,見習いや弟子になるだけで,やはり住み込みで主人の持つ技術を真似たり,盗んだりして暖簾分けという独立を目指した。
 現代ではこれらの制度は完全に崩れ,一部の芸術的分野や学者の世界だけに細々と形だけ残っている。ところでこれを,最新の技術であるelectronicsや情報産業に当て嵌めて見よう。Micro computerのprogramなどは,中年の技術者にとって,まったく理解の理解の外であるから,徒弟制度など成り立つはずがないように思われる。実際20才代の技術者が集まって作った,software houseや情報産業関係のnew businessといわれる商売は,結構繁盛しており,窓際族やその予備軍にとって垂涎の的となっている。
 学生時代からbusinessに手を出し,20才代で名も売れかなりの富も手にし,マスコミからCinderella boyと持ち上げられる人が何人もいる。ところでこういう人物は何も情報産業だけでなく,どの分野にでも,いつの時代にでもいるのである。ある新しい産業分野が出現し,それが拡大方向に向かうときには,既成の産業にいる人たちにとっては,想像もできないような度胸と手法をもって,その分野を切り拓いたり,参画したりする冒険心の多い若者が集まるのである。
 ソニーやホンダのみならず,源を官や財閥に発しない企業はみな同じようにして発生・成長してきたのである。大体5〜10年の始動期を経て,5〜10年で急成長し,10〜20年かけて安定するというpaternである。別にUSAだけではなく,日本でもsuccess storyは山のようにある。
 成長の段階に入った産業分野では需要が多く,供給が少ないので,少々おふざけな企業体や他の蚕業からの転進者,常に儲かりそうな商売を求めて資本を回している山師などでも,成長のおこぼれでうまい汁が吸える。当然もっと真面目にやっている会社は急成長する。しかし,必ずどの産業分野でも成長が鈍り,分け前の分捕りあいが始まる。この時期までに一定の大きさに成長してかつ確かな経営をしていないと,いろいろな意味で会社が立ち行かなくなる。Personal computerの分野では,大手の参入ということもあって,この時期が早く来て,成長開始から5年ほどでこの状態となった。
 1970年代前半に創業期を送り,後半から成長したソード電算や,ミニコン出現前の1960年代から操業していたが,70年代後半にパソコン路線に参入したアイ電子測器などが,このところ大手あるいは新興産業のsoftware houseなどの傘下に入ってしまった。
 このような系列化はelecrtonicsの分野でもあたり前で,audioで成長したトリオ,白黒TVで大きくなったゼネラルなど,東証一部上場企業とて例外とはいえない。
 問題は,産業の興亡と企業の命運がかくのごとしであるとしたら,われわれはどのような産業のどのような企業で技術者として一本立ちすれば,幸せな定年が迎えられるのかということである。
 その答えは非常に簡単である。Cinderella boyになって,まだ成長の余力がある'過程で,企業を売却し,入手した株式譲渡利益(通常は全額無税 !?,註1)であと50年近くもある余生を送るのがいちばんよい。
 「エエッ!俺にはそんな才能がないって!」それなら,成長中,むしろ成長寸前の会社に潜り込んで技術をmasterすることである。この場合は注意が必要である。成長する会社には,必ず技術的に優れた考えを持つ人がいる。この人物にくっついて,その思考法を習得することである。技術そのものは学ぶ必要はさらさらない。3〜5年もすれば陳腐化して使いものにならなくなるのが落ちである。
 決して自分が他の丁稚どもより多少技術力があるなどとのぼせたり,気を許してはいけない。いちばんよい思考法を学ぶのである。学び取ったら,その産業に参入しつつある大企業へ中途採用で入る。もしかしたら自分のいた会社が系列化に入ったとき,だかい顔ができるかもしれない。
 それが無理なら,何としてでも大企業に入ることである。この場合は下積み生活がいちばん長く,どんなに奉公しても,技術の考え方を学びとれないこもしれない。企業全体としては成長が遅く,自分が力を付けられる仕事や上司としての技術者に巡り合う確率が低いからである。
 最後にこれだけは確かに言える。いつの世にもいる一握りの人々を除いて,programのような先端技術者といえども,丁稚奉公して,技術の何たるかを身をもって習得しないと,安定期には不要の人物となるか,ずっと下積みをやって,次の成長分野の若い技術者に,かつて自分が発したのと同じ視線を浴びせられるのは間違いない。

註1:
 税収不足のこのごろは,株式譲渡収入にもたくさんの税金を払わなければならないようになってしまい,ますます創業して一攫千金を夢見て努力することがむなしくなってしまった。
 清朝中期以後の中国も,拡張しすぎた国境線を守る経費や奢侈に流れた王朝の経費を賄うために,商行為などに多額の税金をかけ,反対する言論を封じるための弾圧を行った。このためか,18世紀からの世界的な経済の発展に取り残されて行った。


1986年1月号 狗不理

 中国へ行ってきた。ここで中国の印象や参観記を述べる気はない。ある会合に招待されて参加したのではあるが,先方の労をねぎらうために,当方でも招宴を張った。異国の地であるから,どこにどういう店があるのか,知識が全く欠如しているので。費用以外はまたまた先方の手を煩わせてしまった。
 宴会の会場に選んでいただいたのは,天津で有名な“天津包子”の店“狗不理”(註1)であった。包子とは日本でいう肉饅のことで,“饅頭”と書くと中身の入っていない玄米パンのような蒸しパンのことを指す。ただ形は一般に日本のもののように大きくはなく,一口か二口で喰べてしまえるものが多い。皮もパンのようにふかふかしていず,餃子の皮がふくらんだような感じである。
 この天津包子はこの店の独特なものだそうで,包子の中に包んだ具から出るsoupが外にこぼれないように包んであり,一口で喰べると口の中に美味しい味が広がり,グルメでなくとも気に入ること受け合いである。
 食事の終わり近くにこの包子が出ると共に,美人の服務員がこの包子と店の由来を解説してくれた。私の拙い中国語の力でやっと理解できたのは,‘昔,“小狗子”という渾名の人物が,それまでの包子の作り方を改良して,いまのような美味しい包子を発明した。当初は街の人たち相手に安く売っていたが,やがて店も大きくなると,立派な料理店になってしまい,大衆の財布ではとうてい入れないようになった。この包子自体はそう高くないが,これを喰べるには,他の高級料理と共に宴会ということになってしまった。すなわち大衆を相手にするのを止めたわけである。そこで街の人たちは彼の店を,犬が人を相手にしなくなったとして,“狗不理”と呼ぶようになり,時代が下がった今では店の名になった。’というような一部始終であった。
 現在は決して“不理”(“理”はかまう,相手にするという意味)ではなく,店が狭く入りきれない客のために小売りもしている。またこの由来も時の世情に応じて変わるのだと日本に帰ってから教えてくれた人もいた。
 中国料理のグルメ談義は閑話休題とし,世の“狗不理”を捜してみよう。毎度おなじみのsoftware屋は当然として,そのほかにもいないであろうか。昨年の春ごろはIC不足でどこの半導体商社も鼻息が非常に荒かった。例によって転がしroute品を回して10倍もの高値を付けて,暴利を貪っていた。金のないやつは買うなという態度である。半導体makerも強気に出て,出荷価格を10〜30%程度挙げたところもあった。
 しかし,総じて元売りは変わらないのに,小売りは10倍というのは,便乗商法そのものであり,品不足につけ込む“狗不理”と言えよう。過去のIC不足を見てみると,oil shockのときとインベーダgame騒動のときに起きている。今回は前の2回と比べるとICの生産量baseそのものが非常に大きいので,不足していると言っても,先行発注してあるものや,金に糸目を付けなければ,必要な数量は手当てできた。
 それ故に火事場泥棒商社はそれこそ笑いが止まらないほど儲かったのである。ちなみに私が入手したspot品のTTL(25本単位購入)の価格の動きを見てみよう。 

1983年 1月 @29 1984年 2月 @130 1985年 1月 @32
5月 @27 3月 @195 6月 @30
9月 @30 8月 @33 10月 @24

というぐあいに昨年の春に彼等は暗躍していたのがわかる。
 ところで,userは一度“狗不理”の目にあうと,二度とその業者とは付き合う気はなくなり,“不理狗”を実行する。にもかかわらず,品不足のたびにブローカーが成り立つのは,前の品不足のときにICを買っていなかったuserが大量に新規発生しているからであろう。背に腹は換えられないと言うのであろうが,前述のICで1984年4月頃に@800という相場を聞いたことがある。このような高価なものを大量に使っていたのでは,われわれ零細業者は利益がすべて飛んでしまうことになる。しかし,価格がある以上買う人がいるということで,高値でつかまされて,在庫になったりしたuserは気の毒である。
 幸いにして,夏の声を聞くころからIC不足は一転して過剰に転じ,今年は今までの最安値となって,半導体各社も減益となっている。不良商社の中には,早逃げに失敗して,そのまま営業を続けたため,ICの評価損と売上げ減による経費倒れで,店仕舞いに追い込まれた所もいくつかある。心の中では快哉を叫びたい気持ちである。
 日本の経済構造や規制は商社行為には有利で,製品を開発・製造する側には不利になっている。市場価格100円の物は,生産者は50円で出荷し,その中で材料費,開発費の償却,加工費,利益を見なければならない。一方流通過程では,何人もの手で残りの50円を奪い合って,巨利を得ている。自動車など一部のものを除くと,第三次産業の分野が繁栄している。
 心配になるのは,このように経済が生産者を省みなくなると,生産過程に従事しようという優秀な人々が減ってしまうことである。日本の経済力の根元がハイテクではなく財テクのみになってしまったとき,英国ほどの個人的蓄積がないわれわれは,大英帝国の栄光などと人のことを対岸の火事視できないのではなかろうか。“狗不理”はグルメの世界に閉じ込めておきたい。

註1:
 中国では数年前“狗不理”を題材にした連続TV dramaが放映された。いまでは,天津の店が中国全土や外国にも展開している。


1986年3月号 碩学
 文学の分野などには,学者だなあと感じられる人がいる。先日文化勲章を受けられた独文学者の相良先生なども,そういう方のお一人だろうと思われる。私が何人かの級友と共に,少しだけ教えを乞うた中国文学者の倉石武四郎先生もこのようなtypeの先生であった。先生が亡くなられてもう十年余になるが,今だにその授業姿勢の厳しさは思い出される。
 現代中国作家の重鎮であった“老舎”の戯曲“龍鬚溝”を教えていただいた。“龍鬚溝”は日本語でいえば“おはぐろどぶ”といった感じの下町のごみごみした裏店である。ここでの出来事を通じて,旧中国の矛盾を突いた作品であるが,北京の下町言葉で書かれているため,浅学菲才の学生たちに歯が立つ代物ではなかった。しかし学生側から希望したtextでもあったので引くに引けなかった。
 一人ずつ科白を読まされたわけではあるが,正確な発音,それもその場の雰囲気に合った読み方を要求される。先生が昔の北京で聴かれた感じに近づくまで何回でも発声させられた。このように読んで初めて,この作品の内容が理解できるというお考えであった。それまでの10年間に受けてきた英語教育のチャランポランさに比べれば,学問をやる人はこのような細かなことまで気を遣うのかと恐ろしくなった。
 結局,私は半年留年してようやく卒業試験に合格するや,同期生たちの何人かとともに,後輩を教える立場になってしまった。当時“あの新米の先公は,文法や解釈をちっとも教えないで,読ませてばかりいる。能力不足なので楽な発音ばかりやっている。”などと陰口をたたかれ,大学の中国文学に在学中の学生に意地の悪い質問をされたこともあった。かっこよい授業をあえて放棄してまで発音に傾いてしまったくらいに,先生の学問と教育に対する姿勢に傾倒してしまっていた。もちろん態度の悪い学生には,十分意地の悪い問題というおしおきで,かれらの知識の限界を教えてあげた。小学生のころから完訳本の西遊記や水滸伝,三国志を何回も読んで,ほとんど諳じていたのであるから,ネタはいくらでもあった。
 私はその後本職のelectronicsの分野に戻ったが,旧友たちは日中関係で仕事をしたり,先生とほかの先生とで編纂中であった岩波書店版の“日中辞典”の仕事を手伝ったり,教師になってしまったりして,中国語を本職化している。
 とにかく,このように学問に対する姿勢がまじめで,つねに前を向いていて,非常に多くの知識を持ち指導的な体系や論を作れ,かつ尊大でない学者は数多くいない。“碩学”という言葉はこのような学者のためにある
 ところで文学に限らず理学や工学の分野でも,ちゃんとした学者は大勢いると思われる。一方学者でございという看板を立てているにもかかわらず,学問的な才能はおろか,情熱や姿勢までまったく持たない“学屋”がもっと大勢いるような気がしてならない。この学屋は,学問と称するものを売り物にしている連中で,“羊頭狗肉”もはなはだしいが,いちばん気の毒なのは,この切り売りされた,学問的匂い付けされたdogmaを買わされる学生たちである。
 たとえばいま多くの大学(実態が20年前の工業高校並みの大学は,大学という名称が専門学校の別称であると看做して除く,専門学校側が気を悪くするかな?)では,computer教育とか情報関係の授業とか称して,programの組み方を,演習までして教えている。またこれを教える(これしか教えられない)ことによって大学教員として糊口をしのいでいる“大学の先生”が数多く目に付く。
 これらのcomputer学屋の販売しているFORTORAN演習などのcurriculumを垣間見ると,学者がちゃんと教えているものとちがって,ほとんど大同小異である。Computerの専門学校の授業内容を剽窃したようなものが多い。たとえば各satatement文の使い方(DOだのIFだののあれである)からはじまり,大学らしく数値計算と称してNewton近似やSimpsonの公式による定積分,同じく常微分方程式の解,掃き出し法による行列式の計算などをFORTRANで作らせて,computerの時間と紙を無駄にして,教育がなった思っている。当然のことながら,softwareの仕様のまとめ方や,構造化programmingの手法やdata orientedなprogram法も教えていると主張なさる。どうもしっくりいかない話のような気がする。
 たとえは悪いが自動車の運転を例にとると,Newton近似などの数学的な手法は道路交通法が決めるところの規則や標識に当たるとすると,各statementを使ってprogramするのは運転実技そのものであり,後段の部分の手法などは,mannerや常識のたぐいから,A点からB点へどういうrouteでいつ移動するかというnavigationに当たるのではなかろうか。かの悪名高い自動車運転教習所でさえ,道交法の説教と実技にそれぞれ30時間と27時間(註1)を最低必要としている。最後のmanner以下は,けっきょく個人個人に任されている。たぶん自動車を単に運転するより(大学で教えているから)たいへんでむつかしいと思われるprogrammingが,“学屋”の言う通りに週一回程度の演習でよいはずがない。もっとも現実は週一回なので,自動車教習所の教官が大学の学屋と同じように尊大になるのは,同じく技法のみしか教えない人々の共通点かもしれない。
 とにかく,大学の正課(必修として)で,FORTRANやPASCALなどの言語を書くことの演習をさせたり,UNIXなどのoperating systemのcommandを覚えさせたりすることはnonsenseである。Computer scienceを担う世代を教育しようというのに,“学屋”が自動車教習所並みのやりかたでやっていたのでは,学問にならないし,学問の背景のない応用技術などは,mannerなしで高速道路をつっ走る無謀driverに等しい。
 学問になってまだ日の浅いcomputer分野では“碩学”と言われる人物はまだ少ないが,何とかこの“学屋”だけは排斥したい。

註1:
 1986年当時


雑誌「プロセッサ」の「忙中閑話」完