Dr. YIKAI の言いたい放題「技術教育」

2014年版 Copy Right 2014 Dr.YIKAI Kunio

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2014年10月9日 自由な発想

2014年10月9日 自由な発想

 日本国籍時の青色発光diodeの研究成果に対して,現米国籍(注1)の中村修二博士にNobel賞が授与された。同時に二人の日本人学者も受賞した。しかしマスコミは,中村博士と彼がNobel賞を受賞した研究をしていたときに在籍した日亜化学との間の職務発明の特許成果報酬についての民事裁判に関心が向いていて,この観点からの記事が多かった。
 特許紛争自体は,地裁段階で日亜化学は中村博士に200億円を支払えという判決が出て,マスコミの大newsになった。しかし,会社側が控訴し,結局,発明の対価が6億857万円,支払までの遅延損害金が2億3534万円で和解が成立した。1/10以下の金額で和解となった背景には,“最高裁まで争っても地裁判決からの大幅減額は免れ得ない”という中村博士側弁護団の判断があったと言われている。(注2)

 じつは中村博士は覚えていないかもしれないが,養豚家は彼と面識がある。会って話をしたときの印象としては,彼の自信はAspergerな人が持つ自信過剰ととてもよく似ていた。多分彼は自己調教していない生のAsperger人間ではないかと想像する。
 かく言う養豚家は,医者から診断を受けたAspergerな人であり,現在では自分のことをよく自覚して,過大な自信を他人に向けてはあまり発散しないようにしている。自分自身でも20代は多分鼻持ちならない人物であったと思われる。30代前半に運良く結婚してから,嫁さんに逃げられないように自分自身を制御する術を身に付けたのである。
 あたかも“イガだらけの栗の外側を綿で包んだような状態”であると想定していただけると理解いただけるであろう。この養豚家が,中村博士と直接話して,生のAspergerだと直感した。すなわち外側に猫を被っていない栗である。自分自身はかなり角を矯めた感はある。

 このような生のAsperger人間は,よく言われるように直感で相手の感情を読み取ることが苦手である。恋をしたりして相手に積極的に向き合っているときは,理性と頭の回転の良さで,瞬時に相手の気持ちに気付くことが可能である。養豚家の経験から言うと,“相手の思考を自分の脳内でsimulationして,相手が反応する前に相手の感情を理解してしまう”という行動をするのである。
 したがって,疲れたときや気が向いていないとき,あるいは自分が感情的になっているときは,相手の感情に対する対応が疎かになり,相手の感情を無視した言動をしてしまうことがある。恋人である内は気が張っているので何とかなるが,夫婦になってしまうと日常生活中で不用意に相手に棘を刺してしまうことがまま発生する。
 すると離婚の危機に陥ってしまう。養豚家も結婚当初は何回も嫁さんに家出されたり,償いのためにいろいろと貢ぎ物を贈ったり美食を追求したりした。子供が生れたころには自分を制御する術を心得てしまい,嫁さんとはあまり大きな騒動を起した記憶はない。

 ただ,このように人の感情を常に脳内でsimulationしいていると,研究などで創造的な発想が湧く余裕が少なくなるのは否めない。その意味では,中村博士のように棘を隠さない生き方のほうが有利であろう。ただ棘を出せば,当然ながら周りにいる人々とは,人を人とも思わない言動が原因で衝突する。これは自由な発想による創造性とは表裏の関係にあるので,Aspergerな人は自分の立場や希望を理解して自分を制御するしかない。

 中村博士については,青色LED実現のための一つの大きな貢献をしたが,45歳で日亜化学を退職し渡米して以来,養豚家が聴く範囲では科学技術の世界で大きな貢献をする新たな研究を成し遂げてはいないし,教育者として多くの後輩を育てることにもあまり熱心ではないようだ。
 すなわち,Aspergerな人が一人でも自由な発想で大きく実を結ぶのは,研究者や技術者の頭が柔軟な若い内であり,名なり功を遂げて過大な自信を持ってしまって,人の感情を読めないままでは,同水準の多数の人との共同研究や開発は不可能になってしまう。

 養豚家も20代終わりから30代始めにかけて何冊かの専門書を書き,技術書としては異例とも言える各10万部以上売れた。その内の1冊は二度の改訂を経ていまだに上梓されている。当然ながらその当時は,たいへんな自信を持ってしまった。
 残念ながらこの自信は,企業経営をするにはあまり役に立たなかった。1975年に始めた会社は,常時倒産の危機にあり,それを綱渡りで切り抜けて,今は債務超過状態で開店休業している。

 会社を畳んで大学に職を求めるため,50代頭に博士の学位を取ろうとしてFuzzy理論の応用に関する研究を始めた。このときは友人のIT企業社長の勧めにしたがって,研究groupのtopはsimulationの世界では名が売れている教授を据え,まとめ役は人望厚い教授に依頼した。養豚家はideaを出して,programを書き,simulation実験に専念した。共同研究者は3大学4研究室,2企業に拡がり,月1回の研究会はとても楽しいものであった。もちろん論文は多くの人と共同で執筆し,筆頭著者も中村博士がやったように常に独占するということはしなかった
 そのため,(大学院生にならないで)論文博士取得に必要な学会誌論文数(5編であるが,実際にはover runして10編掲載された)を揃えるのに10年もかかってしまい,研究会の一員の先生から学位を貰うまで11年を要してしまった。大学では同期の卒業生が学長をやっており,学位証書を手渡されたときは,面はゆかった。
 この研究では,養豚家の外に3人の博士課程後期の学生が学位を取得した。一人で突っ走って5,6年で学位を取っていれば,一度は大学教授になれたかもしれない。博士号取得後に亡妻の病気が判明し,大学に職を求める努力はもうしなかった。しかし,研究会で多くの人との自由な交流を通じて得たものは多く,自己実現の場は単なる学位取得ではなく,10年続いた研究会にあったと思う。

 自由な発想はAsperger人間にとって創造的な仕事をするのに不可欠ではあるが,周りとの関係を重視すると往々にして発想が妨げられる。中村博士は生のAsperger的行動によって,日亜化学からの大企業の役員並の給料と発明報酬およびMillennium技術賞(注3)とNobel賞の賞金も得た成功者である。人との妥協の道を選んだ養豚家とは,金銭および知名度や名誉の点で雲泥の差である。
 しかし,養豚家は彼のことを羨ましいとは思わないし,素晴らしいとも思わない。なぜなら,歳を取ってからの名誉やそれに伴う緊張は無用の物であるからである。お金もないよりはあったほうがよいが,生活に困らず,時々趣味を満たすための中国旅行に行ければそれで十分である。

注1
 中村博士が渡米して米国の大学で職を得たとき,彼は“日本の大学はどこも自分に声をかけて来なかった”と言い,それが日本の大学の後進性を示す証拠だということをマスコミにたれ流した。しかし,他の2方のNobel賞共同受賞者は,ずーっと日本の大学に在籍している。ただ,彼の人間性が日本では受け入れられなかっただけであろう。
 大学教授の席のofferがまったく無かったかどうかについては,闇の中である。多分,彼が修士課程を卒業した徳島大学と同程度以上の有名大学からのofferはなかったと解してもよいと思う。すなわち,彼の肥大化したAsperger的自信からみれば,徳島大学以下の評価の大学などは無いに等しいから,たとえofferがあったとしても無かったという発言になったのだと思う。
 なお,米国籍については,軍事関係の研究予算を得るには,米国の市民権があるほうが有利というか不可欠なので,彼的には平気で帰化したのであろう。

注2
 中村博士側の主張が広く流布されている中で,日亜化学側の主張も拾ったものにNAVERまとめがある。

「http://toeic990.jpn.org/2014/10/ノーベル賞を受賞した中村修二さんと日亜化学」日亜化学元研究員の濱口達史氏のBlogより
 実際に青色LEDを実現するには無数の致命的な課題があったのですが、その解決策を提案し実現したのは中村さんの周りにいる若いエンジニア達でした。彼ら が「こんなアイディアを試してみたい」というと、中村さんはきまって「そんなもん無理に決まっとる、アホか!」とケチョンケチョンに言い返したそうです。 それでも実際にやってみると著しい効果があった。そういう結果を中村さんがデータだけ取って逐一論文にし、特許にし、すべて自分の成果にしてしまった。

注3
 Millennium技術賞は,2004年以来Finland技術賞財団が偶数年に出す賞で,賞金は110万Euroである。中村博士は2006年に一人で受賞した。iPS細胞の山中教授も2012年に二人で受賞している。


2014年版 完