機関誌「パソコンリテラシ」の「巻頭言」
CopyRight (C) 1988,1990,1994,1996,1998,2001,2003,2004 Dr.YIKAI
以下の内容は,社団法人パーソナルコンピュータユーザー利用技術協会(旧称「日本マイコンクラブ」)の機関誌「パソコンリテラシ」(旧誌名「マイコンサーキュラー」)の巻頭言として同協会理事が交代で書いている中で担当した文を再掲したものである。 なお,雑誌に連載した原文でカタカナ語を使っている部分の技術用語は基本的に英文表記に改めた。さらに,明らかな誤字なども改めた。註と強調はこのHTML fileで加えたものであり,原文にはない。 |
2004年7月17日 Dr.YIKAI |
1988年3月号 | 将を討たんと欲すれば… |
1990年8月号 | 水は低きに流れる |
1994年9月号 | リテラシを必要としないパソコン |
1996年8月号 | 職人国家の帰趨 |
1998年8月号 | パソコン技術者の定年 |
2001年9月号 | 職人国家日本の衰退 |
2003年8月号 | 塾とe-Learning |
2004年11月号 | Ubiquitous社会と監視 |
註: | 1990年の分までは旧団体であるので, 文中の呼称もそのままにしてある。 |
1988年3月号 将を討たんと欲すれば…
Micro computerが出現した時,これを単なるtoolとしてではなく,自分の遊ぶ対象として捉えた瞬間から,今日の世を覆うパソコン時代の到来が約束されたと考えてよい。
ところでわが国の倫理的な考え方には,遊ぶことや楽をすることは悪であり,働いたり学んだりすることは善であるという儒教の思想が色濃く残っている。この考え方は税金の体系にstraightに反映されていて,パチンコ・麻雀・golf・clubやbar・酒・tobaccoなど比較的理解し易いものからトランプ(註1)・電気・一人当り
2,500円以上の食事代・match・film・jouceなど一般消費税と大差ないほど,ありとあらゆる物品や行為に税金がかかっている(註2)。
すなわちほぼ完全な自給自足をして,やっと基本的な住民税などだけで済む勘定になる。しかしすでによく知られているように,政治献金や株式の売買による巨額の利益は無税である。これは日本の税法が税目法定主義だからである。自分に都合が悪くなる税法を国会議員が決めるはずがない。この点ではまったく儒教の考えからはほど遠い国であるといえよう。
さて,法律の条文にないものは無税という税目法定主義であると,新しく創られた品物や行為は,すでにある税目の概念に含まれなければ,当然無税となる。儒教の倫理に合致すれば,産業用であるとか主として事務所で使う,教育向けなどの理由で,通産省や文部省などと大蔵省との間の駆引きがあり,当分の間無税になるものもある。
ところでわれわれの遊びの道具であるmicro computerである。トランプでさえ見逃さない大蔵省が,個人的な贅沢品でないなどと言うはずがない。当然
20% 程度の税金を要求する。これに対し産業用である,教育に用いるなどの理由で抵抗しているわけである。
では,物ではなくgame softwareのようなものはどうであろうか? Golfなどのplayに対し税金がかかるのであるから,理論的には一回一回のgame
playから税金を取りたいところであろう。しかし現実的には,recordなどと同じように一本のsoftwareというhardwareの媒体に税金をかけることになるであろう。
すると国税庁の立場とsoftware venderの立場は同一であることが解る。両者ともsoftwareをcopyして使うなどということはもっての外で,媒体も特定の個人に預けてあるだけで,一回幾らという使用料や税金を取ることが,もっとも望ましい形であると心で考えているのではなかろうか。
ある学者の提案では,現在の技術でこの考え方を実行に移すことは可能である,ということである。こうすれば出来の良いsoftwareを作ると収入が増えるという,じつに望ましいsystemができ,無断copyに神経を尖らす必要はなくなる。しかしなぜかこのやり方は普及していない。それどころか積極的にも討論されてない。TRONなどと同じで,既成の体系を一度壊さないとうまく実用化しないからであろう。
そこで変な提案であるが,税金と同一の立場ということを利用して,softwareのrun一回に幾らという税制を提案すると,意外とcopy問題が解決するかも知れない。検討してみてはどうであろうか?
註1:2004年7月17日追加
英語ではcardという。trumpは切り札の意味。
註2:2004年7月17日追加
この後,中途半端な消費税の導入で多くの物品税は消えた。
1990年8月号 水は低きに流れる
昨今,makerの理工系技術者に対する地盤沈下が著しく,新卒者の50%以下,ひどい大学では30%以下の割合でしか製造業に就職しないと言われており,経済界の重鎮が,「Service業はけしからん。」という意味の発言をしています。日本のような中途半端な計画経済の国では,役所(特に文部省)が立てた計画は,自由に動く民間経済の下で後手後手に回るのが常です。
医師不足の解消のために一県一医大の方針が出され,医師が持つ社会的地位のみならず,その収入に魅力を感じた多くの若者たちが,自己の適性とは関係なく医学部に殺到しています。この場合は社会的使命と高収入が一致するのですから,医師過剰時代を予測して,入学定員を削減しても,志願倍率が上がるだけで,最優秀学生が医学部を目指すというpatternは変わらないと思います。
かつて,産業立国を目指した頃には,理工系卒業者の製造業における待遇は比較的よかったし,使命感にもmatchしたので,多くの優秀な若者が理工系学部を経てmakerに就職しました。それは,今日の技術隆盛下の輸出産業を育てる原動力となりました。
残念ながらcomputer化の時代に,理工系そのものの地盤が沈下し,かつての理工,法経,医歯,その他という序列は,医歯,法経,その他,理工に変わったといっても過言ではありません。それは主に待遇に対する魅力が原因ではないでしょうか。さらにその理工系の卒業生も,makerより見た目の待遇のよいservice業を選ぶ傾向があることについて,単に学生のみの責に帰すのは酷ではないかと思われます。
ところで,マイコンのsoftwareの世界には,まだ一躍風雲児となる可能性が残されています。このため,先日も某大makerが情報処理関連の子会社を設立して求人活動を行ったところ,本社より子会社により多くの理工系学生が集まったという現象がありました。大makerがbackにいるという安定指向と,待遇や可能性が学生の選択条件によりmatchちたのでしょう。
Makerは当面このような作戦でservice業と争うしか手段がないようです。過去においても,優秀な人材を確保した産業は伸びています。ただ人材が集まる所では非常に人材を無駄に使う傾向があります。適材適所で高能率に仕事をするためには,makerは待遇面をもう少し考慮すべきでしょう。社会主義国以上の平等主義が行き渡っているわが国で,差をつけるのは大変なことですが,マイコンクラブの一級(註:)に合格するような人材には。思い切って平均の2倍位の待遇をしてもよいのではないかと思います。
人間の動きは,単なる使命感や強制によってはなかなか思うようにはなりません。たとえ一時的に可能だとしても,使命感の挫折や強制に対するsabotageで,効率は必ず低下してしまうものです。不毛の地となりつつあるmakerに学生の流れを向けるには水路とpumpが必要ではないかと思います。当クラブの存在をかけて,computer
enginnerの待遇改善を主張しましょう。
註:2004年7月17日 追加
PCUAでは,「日本マイコンクラブ」の当時から「マイコン認定試験」(現PAT認定試験)を実施しており,年一回の1級の試験合格者は数10人という難関であった。
1994年9月号 Literacy(註1)を必要としないパソコン
この1,2年のパソコンの値下がりで,V30(註2)のmachineからの買い替えを控えていた自社や自宅のPC98系のパソコンを,一気に486の高速機に2世代か3世代飛ばして更新した。 これで,今までDOS/Vマシンで使っていたWindows用のsoftware以外の,最近流行のsoftwareをstressなしで動かすことができるようになり,経理処理やワープロ,CAD,表計算,databaseなどが実測6倍程度に早くなった。
高い人件費をパソコンの動作待ちに費やすなど,買い替えまでの長い辛抱は意味がなかった気がする。ついでに SASI対応の小容量で遅いHDDもV30のmachineごと,GAL/ROM
Writerや製品試験用専用機にしてしまった。専用のROM Writerに比べて使いやすく,安価なのはありがたいことである。
専用機の最後の砦と思われていたFA分野でも,パソコンNCなどが提唱されている。パソコン本体は,汎用motorや自動車のengineのような,計算powerを提供する部品になりつつある。このような時にmulti-mediaの大合唱に乗って,一体型のバカチョンのパソコンがいろいろと発表され,結構売れている。これは,パソコンの部品化には逆行する商売のやり方である。多分,パソコンについての基本的知識(Literacyと言って引水してもよかろう)が不足している層でも,簡単にmulti-mediaが味わえるmeritがある。
一方,今年あたりから導入された中学や高校の情報処理教育では,数学に属するか技術家庭に属するか訳が解らないまま,伝統的なn88BASIC水準のprogramを,事実上必修で生徒に組ませて,literracyが付いたとしてしまう可能性がある。 実はパソコンvenderは先を読んでいて,literacyなどは簡単には付かないと見て,伝統的なBASICを多少勉強したとしても,かえってバカチョンが売れると考えているようである。今後もこの手のパソコンは種類が増える一方と思われる。
一層のこと,情報処理のliteracyを多くの人が身に付けてもらうことをあきらめて,家電makerの得意の戦術である,いろいろな種類の専用機を数多くの種類作り,計算poepowerの部分は共通の黒い箱にしてしまって,plug inできるようにしてはどうであろうか? とりあえず,ワープロとパソコンの関係はこれが可能だ。Game機も簡単にplug
in化できる。Multi-mediaは,内容はdigital VTR/LDとCD/MDとMIDI楽器の混合物だから,各機能を好みに応じてつけた,software付きの箱に
64 bit game機用の黒い箱をぶち込んで早さを自慢する。オートバイのtuneや改造の世界である。簡単には乾電池や自転車,copyやlasar
printerのengineなどで実用化している手法を採用するだけである。3,4万で買える,より高性能な計算powerを必要に応じて買い替えたり,より高速動作を必要とするときだけ差し替えて使えれば,不要な部分に対する二重投資を避けることができるし,V30を7年もの間使う必要はなかった。
パソコンが計算powerの黒い箱とOSや汎用software,IO機器込みの応用箱とCDやgameのようなapplication/dataに別れて販売されれば,パソコンliteracyなどは不要となり,それ相応の住み分けと技術・文化が育つのではなかろうか。そうするとわれわれの協会も不要になり,この雑誌もこのような巻頭言を掲載できなくなるので,世迷言はおしまいにする。
註1:2004年7月17日追加
Literacyは本来「読み書きの能力」という意味。日本ではパソコンを使う能力の意味に流用されている。PCUA(パーソナルコンピュータユーザ利用技術協会)は経済産業省の所轄であるが,通称「リテ(ラシ)協(会)」と呼ばれている。
註2:2004年7月17日追加
V30はNECがIntelの8086の機能upをして出したCPU chipで,長らく同社のPC9801のCPUとして使われた。Clock周波数10MHz程度の遅い動作であったが,いろいろな重たいsoftwareが開発された。
その後clock rateが早くなったり処理bit幅が32 bitに広がって,80286,80386を経て80486になった。80486はclockが100MHzまであり,Windows
98SEまではなんとか使うことができた。
1996年8月号 職人国家の帰趨
最近,日本の技術の将来が危ぶまれいる。「米国やアジアの元気さ」,「高物価による国内空洞化」,「受験教育が災い」など原因を詮索しているが,それは学者に任せておいて現実を直視してみよう。
いままでの日本人の性格からすると,この国は職人的人間の集りからなっていると考えてよいであろう。多くの人は,職人という言葉に抵抗を感じていないし,むしろ憧れや信頼感を持っている。このことは私もたいへん好ましいことだと思う。ただ,職人の優秀性とそれへの信頼や依存で成り立っている国家が,そうではない国と競争する際の問題点を認識することが重要ではなかろうか。
パソコン関係の技術者だけが職人的であるわけではない。イチローや新潟県魚沼のこしひかり作りの農家,パチプロなどありとあらゆる所に,プロと称されている職人がいて評価を得ている。日本には職人的な雰囲気が蔓延している。この雰囲気は普遍的であり,日本では水や空気のように特別に対価を出して求める物ではない。日本製品の高品質は,この雰囲気を供給者と消費者が共有しているから成り立つのである。
当然職人的でない商品・serviceの品質は,日本では最低水準にあることは,住専や薬害Aidsの件を待たなくても,普段の役所の対応を見れば明らかである。にも拘らず金融関係など多くの非職人は,bubble時も今も大変報われている。
問題は,これら職人的でない商人などと比べると,一部の職人しかその技術や技能に対して報われないことにある。すなわち日本では,職人は商人を通してのみ収入が入った。日本では商人的雰囲気は本来好まれないので少数派である。Pipeが細いから商人は売ってやるという姿勢で職人を報われない状態に張り付けることが可能となっていた。今ではpipeは増えすぎたが,そこに群がって利益をむさぼる構造は変わっていない。
世界的に見て,常に国内や隣国と覇権を争ってきた大陸の国々では,職人的であって良い品質をいぶし銀のように光らせるよりも,super
computerやfilm(註)のように自己主張やagitationで客に購入を強制するのが普遍的な原理になっている。そこでは職人的行動は貴重品であり,そのような人や企業には高い対価を支払う。
では,どうすれば国内の非職人どもに,いわれのない報酬を与える構造を打破できるのであろうか。簡単である。国内の空洞化をもっと進めて,職人的手法が尊重されるところで技術開発や生産をすれば良いのである。職人になりたい人はそこへ行けばよいのである。あるいは国内の商人を相手にしないで商品を売ることである。
ただこれには大きな問題がある。それらのところでは消費者の方にも職人的雰囲気がないのである。品質よりも価格や政治が重要であることである。さらに,言葉や習慣と生活水準の問題が腰を重くしている。
しかし,座視すれば国内の構造は変わらない。われわれパソコンの利用者は,その職人的感覚を大切にして,日本企業への就職や国内での販売のみにすがり付かずに行動すべきであろう。言葉や習慣は若い内に慣れればよいし,どうせ将来が危うい日本を見限ってもよいのではなかろうか。
日本の技術の将来が危ういことの責任は職人にはない。物や金や税金を転がすだけで,一億人もの国家を成り立たせることは不可能である。少数派なら世界で大切にされること請けあいである。
註:2004年7月17日追加
当時米国は日本の国際収支の黒字減らしのために,日本製より性能が悪いsuper
computerを政府機関で買うことを強制した。また,品質が思わしくない米国製filmを街角の小売り店に至るまで置くことを要求した。
いま考えると,bubbleの時代の日本は本当に投資すべきところには何も投資していなかったことが解る。いまようやく,大連で月2,000元(2万6千円)位で日系企業で働く現地採用の日本人が出てきたそうである。日本で就職口がなければ,技術があればもう少しは高級をくれるから,中国に進出した日本企業に現地で就職したらどうであろうか。中国で暮らす分には何とかなる収入である。
1998年8月号 パソコン技術者の定年
パソコンの大衆化で,国民総パソコン利用者の時代が訪れました。当然ながらその普及をbusiness
chanceと狙うhardware/softwareの供給側は,お手軽さを売り物に有名人を使った派手な広告で,未熟なパソコン利用者や一般大衆の購買意欲を煽っています。でも,昨年からの現実は彼らの思うようにはなっていません。多分,今年のWindows98の発売に悪乗りした商売も期待外れになるでしょう。
では,パソコンは使われなくなったのでしょうか? いえいえ,職場はもちろん学校でも家庭でもfullに使われています。もっとも使われ方の範囲は,ワープロ・表計算・game・WWW・電子mailの御三家の範疇の軽い使い方がほとんどです。現実に私の会社でも電話やfaxによる連絡はめっきり減り,電子mailによる連絡がほとんどになりました。この範囲なら新しいprogramや高速大容量のパソコン本体は不要です。買い換えの必要はないでしょう。
ところで,私の自宅では,子供は電話をかけずに電子mailや電子chatでその日の集まりの相談をしています。そのためか,電話会社に払う料金は携帯電話の使用料も含めると異常に高くなってしまいました。電話代と接続料の合計がOCNなどの常時接続の費用より多くなるのは時間の問題です。そうしたら躊躇せず,安いパソコンを使ってinternet常時接続の環境に移行するでしょう(註1)。
このように普及しだすとなると,internetの設定をしたりパソコンを操作できたりする当協会が初期の奥的とした一定のliteracyの普及が達成され,あとで述べる方向へ移行しなければならないでしょう。また,いわゆるパソコンに関して設定・操作できる人という意味でのパソコン技術者は,不要になるかもしれません。
現在のパソコン環境で飯を喰っている出版社やそこに怪しげな記事を書いているwriter,WWW上で商売としてパソコンを使うことを指南しているパソコン技術者など,技術者として定年になる人はたくさん出るでしょう。一般の技術者の35歳定年説と同じで,特定の技術に依存した技術者はその技術を修得した時期からほぼ10年ほど経つと,世の中の進歩に追い付いていけなくなり,技術的には白紙の状態に戻ってしまいます。先端技術は普通3年で半分が入れ替わると言われています。12年で元の技術は1/16しか残りません。
どうしても技術定年後も生き残りたい人は,新しい技術を習得する手法を身に付けるしかないのですが,この方法論を身につけることは20歳代を過ぎるとなかなか難しいとされています。学校時代や20歳代前半に基礎の勉強をしっかりとして,物事の本質を考える習慣を付けなくてはならないとされています。
ところが,いまののパソコン時代では物事の本質を見極めるより,特定のsoftware企業が自分勝手に決めた事柄を,人より多く記憶して使える人が重宝がられます。当然ながらこのような人はすぐにお金が得られるので,若い内に方法論を身につけるというような面倒なことはしなくなるのが普通でしょう。
個人のlevelでは技術定年になる責任は本人がとればよいのですが,日本という国や情報科学という技術全体を見ると,定年技術者が増えるという事は大変なことではないでしょうか。
註:2004年7月17日追加
残念ながらISDNの常時接続にできたのは,この後2年後で,光cableに至っては今年になってようやく実現した。NTTは高い電話代をいつまでも取り続けるために回線の整備を遅らせていると見るのはひがみであろうか。
2001年9月号 職人国家日本の衰退
最近自宅にシャワー室を新設した。それまでは風呂場がなかったので,銭湯へ通ったり,母屋で貰い湯をしていたのであるが,いささか不便を感じたので,家族の内湯が欲しいという要望を入れ,湯船は置かずにシャワーだけを付けた。
たいした予算ではないのに,多くの職人と現場監督の方々が,二週間ほど詰めてくれた。みな結構なお齢で,孫がいる人がほとんどであったが,細かいところも納得がいくまで議論して,施工していただけた。日本の職人は健在であると思うと同時に,若手の職人が少ないという現状を見て,われわれパソコンの世界の現状と将来を見る感がした。
ところで,日本人論は論ずる人の数だけあると言われている。実際日本人の特徴を言い表す言葉についても,「熱し易く醒め易い」,「すぐに人を信じる」,「長いモノには巻かれ易い」,「本音と建前の使い分けが下手」など枚挙に暇がない。
私もその中へ「職人気質」という一言を加えてきた。中国人を「商人気質」,西欧人を「政治気質」と唱える一環である。日本の売りは,製造業だけでなく,篤農家という言葉が示すように,農業や漁業・商業に至るまでの職人気質である。この気質が,米作の反当収量を世界一に仕上げ,日本製の機械や材料が政治的な観点を別にすれば,世界中から歓迎される原因となっている。
この気質がいつの時代に日本人の身についたのかは,私はその方面の研究者でないので定かには言えない。ただ,日本人とは国籍とは関係なく,日本に住み日本語を話す人々であるとすると,日本への渡来人が少なくなった時期以降であろうかと,推測される。
当時も今も,先進文明や文化は渡来人とともにやってきた。初めは生のままで受け入れ,次第に日本という土地に合うように修正され,日本文化として定着してきた。その過程で多くの職人が生まれ,日本人の職人気質が醸成された,と考えられる。
しかし,日本と外国との間の障壁が小さくなると共に,この消化・定着の課程を取るだけの時間がなくなったように思う。Internet を介して瞬時に情報が伝達できる状況では,異なる文化が個々人を直撃する。そのようなgrobal化の影で,すべての個人がすべての分野で職人になれるはずはなく,職人による日本化を経ずして,生の文化に対処しなければならない。すなわち今までの職人気質が出る幕が減って来ている。
事実 PC9801/21 は IBM 型のパソコンの前に滅び去ってしまった。ワープロの文化も怪しい状況にある。従来の心地よい日本型職人文化を維持しようとしても,世界的なcost意識の前では,上述のように若手の職人を育てるのは非常に難しい。
私の専門であるhardwareの世界でも,職人的な回路設計技術者はいなくなり,hardware記述言語(HDL)で下手くそな回路を作っている。
しかし,歴史の動きを後ろには戻せない。私のような古いtypeの職人的技術者が脱皮しないままご用済みとなり,しかたなく年金生活者になってしまったら,確実に日本は不幸である。定年の延長,再雇用,volunteer等何でも結構であるから,そのような方々に新しい職人気質の開花を手伝わせないと,職人気質を背景に,輸出で喰ってきた職人国家日本は,現在の職人たちの年令と共に衰退すること間違いないと思われる。ところで,日本の政治家には職人気質はあるのかな?
2003年8月号 塾とe-Learning
最近は個人指導の塾が急成長している。それも旧来の受験塾の能力別class編成がたどり着いた先という形態ではなく,補習塾を極めていったら個人指導塾になったという次第のようだ。塾や予備校という伝統的なbusiness modelが変わりつつあるのである。
旧来のbusiness modelによる大量生産が東南Asiaや中国および旧ソ連圏の東欧に移転していく中,先進諸国では旧来のbusiness modelの多くが崩壊しつつある。当然softwareに関するbusiness
modelも大きく変化している。大型機では,かつてはOSを著作権や特許権で守ることが市場から互換機(互換OS)を駆逐する上での有効手段であった。一方,大型機で起こったことはパソコンでも起こるというのが,この20年来の世の中の動きである。Hardware部品およびarchitecture,OS,networkにどについてどれも例外はないようである。
このbusiness modelの変遷を見ていると,softwareとまとめて考えられていた旧来のbusinessは,OSなど単なるprogramの頒布とdataの提供およびcustmizeなどのsolutionに別れてしまった。別れた後のprogramの頒布については,今後はStalllman博士(GNUの教祖)の言うような形までは行かなくても,freeへの道を進むことは疑いない。Business
modelとしては後の二者が今後とも重要さを増すであろう。
ところでこれら新しいbusiness modelを担う技術者の育成であるが,この考えで行くと,従来からの理科系の専門学校や高専・大学での教育の多くの部分も,新たなbusiness
modelとして個人の指導やそれをさらに発展させたe-Learningのような形態に移行していくのが必然であろう。実際には情報関係の技術者だけでなく,多くの技術者教育がその方向に移行しなければ,従来の教育体制では,新しい情報化社会での競争を担う多くの人材を育てるには,量的な面だけではなく質的な面でも物足りない。
日本における科学技術教育は素粒子研究などを先端として,哲学的な思考が科学技術を発展させるという考えが主流であった。一方,本来哲学的思考が必要な文科系の教育では,より多くの物事を諳じた者が有利という博覧強記を目指した教育がなされてきた嫌いがある。
今後は理科系においても,一部の中核技術者以外には,ある程度効率良くskillを身につけさせる教育手法が必要になる。すべての技術者に何でもこなせる哲学的な思考を身に着けさせる教育を施すのは,非常に手間がかかる割には成功率が低い。当然ながら世界的な競争下では不利になる。
従来は,受講者の進度や能力に関係なく教室で一斉授業するという教育・訓練を実施してきた。これは実施する側の利便だけを考慮した葬り去るべきbusiness modelである。もちろん哲学的思考を背景にした中核技術者の育成には,小人数による対面と討論を含む教育は欠かせない。その意味では理科系の教育が二分化されるのは止むを得ない。
できれば文科系の教育も哲学的思考をじっくりと育成する教育と現場の実務能力を付ける訓練とに二分化して貰いたいものである。e-Learningはこの分野にも有効であると思われるので,是非検討してみるのはどうであろうか。
2004年11月号 Ubiquitous社会と監視
先日,事務所の裏にある住宅が取り壊された。独居老人が死んだためである。沸いたままの風呂の中で五日後に見つかったそうである。
このような事故に対する対策として,いろいろな機器やserviceが提供されている。いずれも月数千円の費用を要する。そのためか利用する人はそう多くない。卒寿を越える私の老母も独居しており,いつ何時同じような事態に遭遇するか分からないが,簡便な方策として頻繁に電話を入れたり訪問することで,お茶を濁している。
孤独死への究極の対策は,各個人にtagを付けて常時その行動を掴めるようにすることである。
ところで,最近は生鮮食品にも多くの情報が埋めこまれたtagが付くようになり,生産者やその他の情報が,携帯電話を端末として一瞬にして分かるという実験が進んでいる。情報tagはまさにubiquitous社会と言われる現今のIT技術の進展の中で,誰にでも情報を取得し保有・発信する利便性が提供されつつある現状を示している。
一方,人類の歴史は,便利なものやsystemを考え出すと同時に,それまでの生き方を失うことで発展して来た。農耕や通商・貨幣は貧富の差を生み出し,移動手段の発達は交通事故や公害を多発させた。ITとは言わなくても,歴史的に見て情報の所有と伝達は権力の独善を生み出した。
実際,ubiquitous社会は利便性ばかりかというと,そうでもない。英国では街中に張り巡らされた監視camera網によって,犯罪者をあぶり出そうというsystemが構築されているようである。日本でも新宿の歌舞伎町に多数の監視cameraが置かれたため,cameraがない周辺の地域に犯罪が拡散しているそうである。
高速道路に付けられた監視cameraで車の番号と運転者の顔,時刻などが記録されている。ときおり犯罪者が高速道路を逃走したときなどにその情報が使われたと報道されるが,犯罪がそのために減ったとは考えられない。宇宙から見張っていても,堂々とmissileを発射しようと考える国があるくらいであるから,確信犯を監視するのは意外と効果が薄いのかもしれない。結局,善意の個人がubiquitous社会の監視網に引っかかってしまうことになる。
Ubiquitous社会は,このような権力による監視や犯罪者による利用という欠点をどう押さえて,個人のprivacyを守りつつ,安価な情報収集の利点を伸ばすかという,技術と政治・行政の新しい接点を見いだす作業が重要と思われる。
携帯電話を持つ子供や老人などの位置をパソコンで把握できるserviceがあるが,その情報が誘拐犯に伝わる可能性はないのかなど,老母の状況を離れた場所で知る必要がある私は,systemを導入していないにもかかわらず,いろいろと心配している。
中国には,「上有政策,下有対策」という言葉がある。ある種のOSのように,権力を持つ側が過大に個人情報を集めて監視しようとしたら,その逃げ道を考え出す人が必ずいることを期待したい。
機関誌「パソコンリテラシ」の「巻頭言」完