日中学院校友会第18回中国旅行報告 II(4月12日,13日)
河南省古都に歴史を訪ねる旅


2014年4月10日 羽田発北京経由洛陽へ
11日 周王城天子駕六博物館,龍門石窟,關林
12日 白馬寺,牡丹園,漢魏故城,洛陽から鄭州へ,河南博物院
13日 安陽日帰り,殷墟,陸路黄河を渡る
14日 開封(かいほう)日帰り,鉄塔,包公祠,宋都御街,清明河上園
15日 北京経由帰国


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4月12日 白馬寺,牡丹園,漢魏故城,洛陽から鄭州へ,河南博物院(鄭州泊り)
★ 白馬寺
 朝には雨は止んでいたが,曇天であった。鄭州への移動があるため,7時には荷物を出し,8時に荷物と一緒にバスに乗り込んで白馬寺に向かい,9時前に到着した。
 白馬寺は,東漢(後漢)時代のAD68年に建立された中国初の仏教寺院である。当時の造りが残っているのは,写真に写っている門だけだそうである。
 境内は線香の煙が絶えない。寺院の庭園には,牡丹と桐の花が咲いていた。インド風の建物は,インドから贈られた廟である。
 10時前に白馬寺を後にし
て牡丹園に向かった。牡丹は,白馬寺とは国道310号線の反対側にある,歩いても行ける神州牡丹園で見ることにした。
★ 牡丹園
 洛陽は4月10日から牡丹節が始まっていて,河南省のみならず全国から大勢の観光客が市内のあちこちの牡丹園に集まって来ている。
 幅広い国道は多重駐車の車で一杯で,「第32届中国洛陽牡丹文化節賞花会場」と書かれた正門前は,「人山人海」で,参加者たちがはぐれないように気を使った。
 ガイドの徐さんが手際よく入場券を手に入れ,脇の団体入り口から入り,遮光ネットがかかっている一角で牡丹を観賞した。
 雨でしなだれている花も多かったが,全園を回ることはせずに,ここだけを観て,入園待ちを入れて半時間ほどいて,10時40分ころにはバスで次の目的地へ向かった。
 参加者には物足りなかった人もいたとは思うが,牡丹園観
光はあくまでも“出来れば”という予定であったので,この混みようから見て,洛陽で牡丹を見たという事実だけで納得いただいた。
★ 漢魏(洛陽)故城
 白馬寺が今の洛陽市内から東に10kmほど離れたところにあるのは,西漢から北魏までの洛陽城が,今の洛陽から15kmほど東にある漢魏(洛陽)故城の場所にあったからである。東漢末に董卓によって火をかけられ略奪・廃棄された洛陽城は,曹丕によって再建された。
 漢魏(洛陽)故城は国道310号と洛河とに挟まれた場所にあり,バスは脇道に入り一面の麦畑の中にある発掘場所をバスの窓から10分ほど見学した。麦畑の向うに再現した往時の城壁の一部が見えた。将来は公園になる予定だそうである。
★ 洛陽から鄭州へ
 11時前には連霍(huò)高速(G30)に乗り,半時間ほどで伊河と洛河が合流した伊洛河を渡り,鄭州へ向かった。途中の偃師には杜甫の墓があるそうである。バスの窓からは崖に作られた窑洞や,無数の桐の花が見られた。
 G30は,カザフスタン国境の新疆の霍尔果斯(ホルゴス)から黄海に面した港町連運港まで,4,400kmに亘って中国の中
央部を東西に貫く一大動脈で,始皇帝が作らせた「馳道」の現代版である。
 13時過ぎに鄭州に着き,仲記酒楼で遅い昼食を摂り,14時前に次の見学先へ向かった。
 報告者が過去に鄭州に仕事で来た経験から言うと,ここの料理は辣くて油っこいという印象であったが,今回の旅行では,現地ガイドの徐さんが,前もって日本の高齢者に合う料理を選び,味付けにも配慮させたためか,野菜料理中心でとても美味しかった。
★ 河南博物院
  河南博物院には14時半前に到着し,閉館まで残された2時間半で大急ぎで見学した。 台北の故宮博物院もそうであるが,1日かけてゆっくりと見ると,細かいところが楽しめてとてもよいとは思うが,盛り沢山な団体旅行で,これだけの時間を取れただけでもよかったと思う。
 ここでは参加者の一人のお友達の王女史が出迎えてくれた。王先生は河南博物院の元館長で陶磁器研究の専門家である。中国語が分かる参加者は,王先生の説明で見学した。さらに参加者全員に,博物院の展示物を紹介しているカラー写真の小冊子をくれた。王先生
に感謝する次第である。
 夏の後期から商の前期と言われる二里頭遺跡の宮殿跡から再現した宮殿の模型は,殷墟の遺跡から再現した宮殿と比べると,決して豪奢とは言えない建物である。
 お墓から出た空中回廊付きの高層住宅は,秦漢代の住まいの模型である。天辺に夜明けを告げる鶏がいるのは,桃都樹あるいは扶桑樹と考えられている。枝の長さは三千里あるという。
 失蝋法で作られた複雑な形状の青銅器を多数見た。玉は遺体を腐敗から防ぐと信じられていて,貴人は玉衣で埋葬された。前回の旅行でも,広州で玉衣の展示を見た。
★ 夕食後鄭州中洲假日酒店へ
 博物院が閉館し,17時過ぎにバスに乗って夕食に向かった。夕刻の鄭州市内の道路は非常に混雑していた。
 18時に豫滿樓に着いた。110号室で夕食を摂った。金星ビールという聞き慣れない銘柄のビールと冷や奴が出たが,箸で刺しても持ち上げられるような中国式の丈夫な豆腐だったので,喉越しを味わうことはできなかった。 
 19時半に食事を終えて3連泊予定の鄭州中洲假日酒店に投宿した。このホテルは以前は中州賓館と呼んでおり,鄭州では最高級の要人が泊るホテルで,武装した兵士が出入りを管理していたそうである。
 今は順番に内部を改装しており,われわれは改装待ちの向かって左側の建物に泊った。各部屋のカードキーの読み取り感度が鈍く,何回も試してようやく鍵が開く被害にあった参加者もいて,ご迷惑をかけたが,1980年代までの要人の気分が味わえたかもしれない。
4月13日 安陽日帰り,殷墟,黄河を渡る(鄭州連泊)
★ 安陽殷墟へ
 この日は前日までの天気の影響で街全体に霧が立ち籠めていた。世界遺産の殷墟がある安陽までは,片道約200kmの行程を往復する。高速道路経由で2時間半~3時間必要なので朝食を早めに摂り,8時に出発した。新市街を東に抜け,高速鉄道の鄭州東駅を右手に見て,京港澳高速(G4)に乗って北に向かった。
 G4は,北京から広州を経て香港・マカオに至る中国の南北を結ぶ,全長2,300km近くの大動脈で,鄭州で前述のG30と交わる。この日は霧のため,G30の開封側は通行止になってい
て大渋滞していた。翌日の開封行きが心配である。
 11時ごろに高速を降りたら,安陽市外事弁公室の郭さんが,休日にもかかわらず出迎えてくれた。彼は日本語が少しできる。昼食を摂りに店に入る前に,旅行委員が郭さんと挨拶を交わした。添乗員の手塚さんによると,日本人があまり訪れないところなので,安全面を考えて徐さんが外事弁公室にあらかじめわれわれの来訪を伝えた結果だそうである。 
 食事は早めに11時半前から,天天菜很香酒楼の憶江南の間で摂ったが,部屋が少し狭かった。
 花は食べるとよく聴くが,この時季のほんの短い期間しか食べられないという,ニセアカシアの芽の天ぷらが珍しかった。
 茶碗ならぬ大鉢蒸しには驚いたが,味は日本人好みになっていた。ただ具がほとんどなかったのが残念であった。
殷墟
 昼食を12時過ぎに終えて殷墟に向い,入り口には12時半過ぎに着いた。
 世界遺産になっている殷墟は,旅行説明にも書いたように,それまで架空とされてきた商(殷)王朝の実在を裏付けた,世界の考古学上でもトロイの遺跡の発見に匹敵する大発見の場所である。
 殷墟の中は公園になっていて,公園を回ると殷墟博物館や他の遺跡,さらに殷時代の宮殿を再現した建物,甲骨文の紹介など,一種のテーマパークになっている。
 見て回るだけで商王朝の殷代の姿を学習することができる。しかし,天気が良い日曜日であったにもかかわらず,日本人は当然ながら,中国人観光客の影さえ疎らであった。
 博物館の中には,貨幣として使った子安貝,甲骨文字片,鼎などの出土品が山のように展示されていた。
 この鼎は現在までに出土した中では最大のものだそうで
ある。殷墟からの出土であるから,春秋時代の周の鼎はこれよりも小さかったかもしれない。楚の莊王も小さな鼎の軽重を問うなどということをして,自らの重さを軽く見られてしまったのかもしれない。
 公園内には副葬された馬車や生贄となった頭無しの人骨を発掘された状態で再現したもの,大量に発見された占卜に使った亀の甲羅の発見された状態の模型などが展示され
ていた。甲骨文によれば,生贄狩りの成功を占う文が読める。太公望の羌族がしばしば生贄狩りの対象であった。
 武丁の后で女将軍である婦好の墓は,盗掘に遭っていない状態で発見され,当時が解る多くの副葬品が出土した。
 建物の地下に入って,発掘時を再現した模型を見ることができる。ここにも殉葬された人物の骨がある。 
★ 陸路黄河を渡る
 殷墟では約3時間見学し,15時半前にバスに乗って,G4を鄭州に向かった。道は日曜日であったためか,意外と混んでおらず,18時には黄河にかかる橋まで帰って来た。
 黄河の橋は全長約8km,高い堤防に登る南北の取りつけ部分を含むと約9kmの長さがある。ちょうど日が沈む時で,山がないために「白日依山盡」とはならなかったが,天井河になっている黄河の様子が見て取れた。バスは右側の写真から順に黄河を北から南に渡って来ている。堤防の上は道路になっていて,黄河側の樹木の背が高いのが見て取れる。
 18時半前に鄭州東部にある新市街の中興楼烤鴨店に着き,荷之情の間で夕食を摂った。
 麺は辣そうであった。こちらの麺は「手工麺」と言われて出されても,日本の手打ち麺とは異なり,シコシコ感もなくブツブツ切れやすい。今回の旅で始めて烤鴨を食べたが,皮のパリパリ感が足りなかった。
 20時前に食事が終わって外に出ると,月が浩々と輝いていて星もよく見えた。この日は旧暦の十三夜で,ほとんど丸く見えた。
 この日は夕刻の黄河上の見事な落日も含め,PM2.5の大気汚染がほとんどない状態での中原の空を見ることができた。商代の人間になった気分であったが,支配層の犠牲となる側の人間がいる古代奴隷制社会は,やはり現代人の感覚には合わないかもしれない。
 バスに乗って20時過ぎには旧市街のホテルに戻った。

2014年4月14日へ続く