釣り師たち
© 2005 Dr.YIKAI
二 こませ
ここは,池袋の雑居ビルの上にあるワンルーム・マンションの一室。若い男がしきりとメールを打っている。
この一月ほどで,千通以上のスパムの被害者を装ったメールを送った。今週は,その中で三通だけにカモが引っかかった,二週間まえにやったときには十通と割と多かったのだが,今回はレスが少ない。
男の名前は翔。一字名が流行ったときに,父親の反対を押し切って母親が付けた。もちろん祖父母は反対したが,当時いちばん人気が高かった名前だったので,将来のことはあまり気にしないで付けてしまった。
予想どおり,翔は高校を半ば中退するような形で,どうにか卒業証書だけは手に入れた。しかし,まともに人生を生きるという気持ちなぞ,毛頭なかった翔は二十になった昨年まで,フリーターを続けていた。主な仕事は飲食店やコンビニのバイト,郵便局の臨時職員,新聞の新規購読者開拓,などだった。
どれも,きつい割には時給にすると,千円にはほど遠い収入にしかならなかった。それでも翔を溺愛している母親からせしめた金で,運転免許だけは今年の三月に取得した。それでフリーターとしての仕事の範囲が拡がったかというと,若葉マークのガキに車を預けて仕事させるような,間抜けた雇い主は見つからなかった。
翔の母親も息子に車を買ってやって,駐車場代まで払ってやるほど金に余裕はかったから,運転はペーパードライバーのままだった。翔は,頭はそこそこ悪くはなかったが,可愛がられて育った人間特有の人生観を持っていた。基本的には棚ボタを最上の稼ぎと考えている。
その翔に仕事と言うか,レスが取れたら一通につきいくらという歩合のアルバイトを持ち込んだのは,高校以来の遊び仲間で一年先輩の孝平であった。仕事の内容は,孝平が置いていったインターネットから拾い集めたアドレスに,どんどんとメールを送り,それに引っかかった相手に対し,文章を工夫して指定ホームページへ巧みに誘導することであった。
翔は,中学時代からパソコンゲームにのめり込んでいたので,メールを送るくらいは,たやすい御用であった。一も二もなく引き受け,一月前に始めたばかりの週は,十三人ものレスを取ることができた。この相手が指定ホームページを開けると,バックにいる組織からカモに請求書が舞い込むという寸法である。
今までにページを開けたカモは四人で,翔は分け前として八万円を受け取った。世の中はこんなにちょろいものだ,と翔は感じると共に,仕事を紹介してくれた先輩の孝平に感謝した。バイトでは,フルに働いても毎日六千円から七千円くらいの収入にしかならなかった。
それが,誘導したホームページに上げてある,どこからかかっぱらってきたつまらないエロ写真を眺めながら,メールを出すだけでこの収入である。
この一ヶ月で八万円という収入は,おいしいというほどの額ではないが,コンビニのバイトよりましで,高卒時に就職した友人達が倍も取っていないことを考えると,楽して金になっていることは間違いない。
ところが昨日孝平が訊ねてきて言うには,
「お前,こんところ舐めてんじゃないか。先週ものになったのは一人だけで,今週はまだゼロじゃんかよ。」
「でも,その前はけっこう行ってたし,今週きたレスがていねいだったオヤジだって必ず行けますよ。」と翔は口を尖らせ気味で答えた。
「バカ!」孝平は平手で翔のほっぺたを,女がやるようにひっぱたいた。
「最初の分は,お前が仕事を嫌にならないように,オレがやってやったサクラだ。」孝平は続けた。
「お前一人のために,オレは百万以上使ったんだ。ここの部屋代だって馬鹿にならないんだ。のぼせるのもいいかげんにしろ!」
「エエッ!」翔が次を言う前に,
「今度のカモからは必ず一人ものにしろ。さもないとオレが上に立て替えた分,命が惜しければ,きっちり利息を付けて返してもらうから。」孝平はドアを蹴飛ばして出ていった。
翔とて,孝平が危ない組織に片足を突っ込んでいるという噂は知っていた。しかし,どうも孝平はすでに組織の構成員になってることは,間違いない。
どうしよう。もらった金は女との遊びに使い切ってしまっていたし,カモの喰いが急に悪くなった原因も理解できた。あせった翔は,今回レスが帰ってきた三通に望みをかけた。
とりあえず,いちばんていねいな返信を送ってきた修造を,最初のカモにすることにした。これなら喰い付くだろうと,翔なりの最大限の努力を払って,おとなしめのメールを書いて送った。
せっかく苦労して書いた文章なので,後の二通にもついでに同じ内容のメールを送っておいた。
件名: 一昨日メールをした美穂子です。 差出人:美穂子 <mihoko@msm.com> わたしの方でも調べたのですが、多分いたずらメールの類だと思います。 幸いウイルスなどに感染してる形跡はなく、良くあるなりすましメールだったみたいですね。 ここ最近このようなメールをよく受信するので少し過敏になっていたのかもしれません。 お騒がせして申し訳ございませんでした。 |
翔は,小学校から中学へ進むときに,すこし成績が良い都内の子供たちの大多数がやるように,中学受験を目指して週三日の塾通いと毎日曜日のテストをこなした。
文章を書く力は,そのときの特訓のたまものである。中学受験自体は母親の高望みの結果,軒並み偏差値六十以上の学校を連続三日も受け,最後にはぼろぼろになったあげく,全滅という惨事になった。
そのトラウマで,翔は公立中学へ上がってからは,まったくやる気をなくしてしまっていた。それは翔とその母親だけの責任ではなく,小学校時代の出来る生徒がすべていなくなった,気の抜けたビールのようなクラスや,文部省から指示された日の丸掲揚や君が代斉唱を守ることに命をかけているような校長や管理職の教員が,一方では生徒をバカにしたような態度をしていることにも一因があった。
大都市では少子化が急激に進んでいるため,ぜいたくを言わなければ,希望者全員が公立高校へ進学できた。修造のころの東京の公立高校とは事情がすっかり変ってしまっていた。
それでも,翔は文章だけはいろいろと書いてはきた。高校時代の女友達には,いまどき珍しいと重宝がられ,宿題を手伝ってやって,おいしい思いをしたことも何回かある。
修造は,妻の恭子のことがすべて終わったあと,知り合いのいる中小企業に頼まれて,週二回ほど総務関係の雑用を手伝っている。
美穂子を名乗る人物からの怪しいメールに返信を送ってから中一日置いた今日も,午後からそのような仕事を片付けに出かけ,夕方七時ごろまで会社にいて,知り合いと赤提灯で一杯やって帰宅した。
自宅に帰ると,修造のメールボックスに,美穂子なる人物から,謝罪の意味が書かれたメールが届いていた。
もう少しエキサイティングな内容の返信がくることを期待していたので,やりすぎて感づかれたかと思い,正直がっかりした。
それにしても,
「わたしの方でも調べたのですが、多分いたずらメールの類」
「ウイルスなどに感染してる形跡はなく、良くあるなりすましメールだったみたい」
という文面から見ると,素人の女性を騙っているにしては,かなりネットやメールに慣れている人物のような内容である。前回の素人を装った内容からは,たいへんな進歩といえる。
そこで,魚の方から,エサが付いていない釣り糸に,魚信(あたり)をくれてみることにした。とりあえずネタを探すためにネットをググッたら,おとといは見当たらなかったブログに出会った。
次のようなメールがきた。 差出人名:美穂子 <mihoko@yapoo.co.jp> 件名:こちらの送信アドレスに見覚えはございますか? 私のメールボックスに↓のようなメールが来てたんですが、どういったご用件でしょうか? 送信者様のメールアドレスが私のアドレス帳に登録はなかっので 不思議に思いこのように返信してみました。 I am in the States . Please do not bother me and get a happy life. I am sure you understand a bit of English. ほとんどスパムなんだけど,差出人名やメールアドレス,日本文をググッても引っかからなかった。 1 普通のスパム被害メール 2 スパム被害を装ったスパム 二つの可能性で頭が混乱している。だれか同じメールを受信したやついるか? |
おおっ,やはり倅が言うとおりだったんだ。修造は身長だけでなく,世の中を知っているということでも,自分を追い越してしまった倅を見直した。
とりあえず,相手を喜ばすような内容を書かないことには,この淵には獲物がいないと,釣り師をあきらめさせてしまう。修造は,自分の個人の情報から,すでに自分のサイトで公開されているものを慎重に選び,返信を送った。
送信先名:美穂子 <mihoko@msm.com> 件名: Re: 一昨日メールをした美穂子です。 美穂子様,修造と申します。 > 幸いウイルスなどに感染してる形跡はなく、良くあるなりすましメールだったみたいですね。 それはよかったです。私のアドレスが流出したため,お気を悪くさせてしまい,ご迷惑をおかけしました。 > ここ最近このようなメールをよく受信するので少し過敏になっていたのかもしれません。 小生は,公開されているサイトをご覧いただければ判るように,企業で法務関係の専門家を三十年もやってきましたオヤジです。パソコンやインターネットで何か問題があればメールをください。罪ほろぼしで,ご相談に乗ります。 今の仕事は週二回ほど頼まれて他所の会社に顔を出すことと,週一回程度の趣味だけです,のんびりとやっています。 では,インターネットを使った詐欺にお気を付けください。 頓首 |
最後の一行はやりすぎかと思ったが,スパムであることに気がついていることを匂わせたかったので,敢えて加えてみた。これで相手の実力が測れるはずである。
もし,気にしないでそのまま何か言ってくれば,たいした相手ではない。この行にレスすれば,相当な腕前の釣り師である。
翔は,昼前に三人のカモに,控えめのメールを送った後,生きている美穂子に電話した。
美穂子は高校時代の同級生で,作文が苦手だったためか,おいしい思いをいちばんたくさんさせてくれた女である。今回の仕事のためのフリーのメールアドレス取る際に,なんとなく美穂子の名前を使った。
ばれたら困るので,今の女の名前を使うことはしなかった。
美穂子は高校卒業後,小さな美容室に掃除係り兼見習いとして入った。高校があった白山駅近くの旧道に面した美容室である。このあたりは,お屋敷も多く,繁華街の店と違い客筋はよい。
美穂子はこの美容室でアルバイトをしながら美容師学校に通っている。本当はすでに資格が取れているくらいの時間が経っているのだが,翔にすぐ引きずられて,まだ見習いの身である。
ゴミを店の外へ出しているときに,美穂子の携帯が鳴った。
「オレ,翔。今晩会えないかな。」翔の連絡はいつも急で,ぶっきらぼうだった。
「がっこ,あるんだ。」
「休んじゃえよ。」このところカレシと連絡が途絶えていた美穂子は,生理前で身体になんとなく疼きを覚えていたこともあって,
「わかった,どこで?」
「オレのとこ,どう?」
「うん。五時に店上がるから,六時には行けるわ。」
翔の心に,美穂子の名前を無断で使ったことの後ろめたさがあった。昨日孝平に叩かれたことへの苛立ちもあった。それを今の女にぶつけると,逆上しかねない。その点,どこか抜けたところがある美穂子なら,翔を落ち着かせてくれると思った。
夕方まで時間が空いた翔は街に出た。午後ともなると,駅からそう遠くないところにある,野球の長嶋がいた大学の学生や,たくさんの高校生がうろうろと歩いていた。
なんでこんなに暇なやつが大勢いて,オレのせっかくのメールにはレスが来ないんだ。翔は場違いなことを考えながら,駅前のラーメン屋で遅めの昼飯と言っても遅いような朝食を摂った。
店から出たところで,リーマン風のオヤジとぶつかりそうになった。
「気ぃつけろ。」翔はオヤジを怒鳴りつけた。
オヤジは定年前後の年で,手にはバッグを持っていた。リーマンにしてはよれているな。翔は思った。脅しても何も出そうにないように見えた。
顔を見ると,疲れた顔をしていた。そこで,急に態度を変えて,
「若いのが多い人込みだから,よく見て歩けよな,おっさん。」と,手の平を返したように親切になった。おわびに千円くらい出れば,昼飯代の足しにもなる。でも,オヤジは,
「どうも,ごめん。」と言って,足早に去って行ってしまった。
翔は,変な期待をして喋った分だけ,損をしたような気分になり,電車から拾い集めた週刊誌を売っている露店で,今朝出たばかりの漫画週刊誌を二冊買って,ワンルームへ戻った。
メールボックスを開けると,さっき出しておいたメールに返事がきている。幸先がいい。たかり損ねたオヤジのことは,きれいに忘れ去った。
返事は一通だけだった。いちばんカモになりそうなやつからは,まだ何も言ってきてない。とにかくメールを読んでみた。
件名: Re:一昨日メールをした美穂子です。 受取人:美穂子 <mihoko@yapoo.co.jp> ご返信感謝感激です。 私の家は兼業農家で、高速道路が私の農地を通りました。 悪名高い道路公団に5億円で土地を売りました。 農業以外の仕事は、役場の広報係をしています。 妻は若くして先立ち,子供がいないのでお金には困りません。 できれば私の身体が役立つ間に子供がほしいのですが、 水商売の女性はいやです。 もし、美穂子さんがお嫌でなかったら、すぐにでも離婚して私のところに来ませんか。 離婚に必要な費用は私が立て替えます。 よい、ご返事をお待ちしています。 |
「舐めやがって。」と,翔は一人で悪態をついた。
話にならない。からかわれただけだ。やはり狙いを付けた,ていねいなレスを送ってきたオヤジに的をしぼろう。
念のため,このメールアドレスをググッたら,オヤジ個人のホームページが出てきた。内容は趣味のことが並んでいるだけなので,さっぱり興味が湧かなかった。ただ,オヤジの顔写真には見覚えがあるような気がした。ページは開いたままにして,買ってきた漫画を読んだ。
夕方になると,生きている方の美穂子がチャイムを鳴らした。
「弁当買ってきたよ。ついでに缶酎ハイも。」
二人ともアルコールは,あまり強くなかった。赤くなった顔をお互いに見あわせて,げらげら笑い合った。
美穂子に名前を使ったことを伝えようと思い,パソコンを操作しようとした翔に,
「私を呼び付けといて,ゲームでも始めようっての。」と,突然しなだれかかってきた。開いたままのオヤジの顔写真を見て,美穂子は変な顔をした。
「違うよ。いいもん見せるよ。」翔は商売ネタのエロサイトを開いた。小さな画面の中の絡みを見て,
「ビデオのほうがいいじゃん。」美穂子はけなした。
しかし,すぐその気になった久しぶりの二人は,派手にじゃれ合った。二時間ほどして,身体の満足と疲れを覚え,交互にシャワーを浴びた。
「オレ,言っとかなきゃならないこと,あんだ。そいで,きてもらったんだ。」
「なーによ。告白でもするの。いいわよ。」まだ火照りが身体から抜けきれない美穂子は,甘い声で返事をした。
「違うよ。これさ。」翔は,美穂子の名前でやりとりしているメールを読ませた。
「これって,詐欺じゃん。あんなつまんない写真見せて,いくら取るつもりなの。」
「やだよ,私,警察に連れていかれるの。」美穂子は,期待を裏切られた気持ちも加わって,きつい口調で言った。
「だからさ,金入ったら,いくらか分けるから。」
「なによ,すぐ女につぎ込んじゃうくせに。」美穂子は厳しい。
「でも,これじゃ話にもならないじゃん。」美穂子は,翔ががっかりしたレスを見て言った。
「レスなんか待ってないで,積極的に行かなきゃ,孝平にお金返さなきゃなんなくなるわよ。」美穂子は,翔の女にでもなったようにせっついた。
「エサ,撒かなくちゃ,釣れないかな。」翔は,孝平が教えた,相手を焦らしながら目的のサイトへ誘導するという手法を,まだ完全に理解してはいなかった。
「オヤジなんか,みんな,すけべしたいと思っているだけよ。」美穂子はけしかけた後,
「あしたは私,早番で掃除しなくちゃなんないから。また呼んでね。」と,あっけらかんとして出ていった。
期待を裏切られたことや名前を無断で使われたことは,すでに美穂子の頭の片隅に追いやられていた。
翔は,多少疲れた頭で文章を考えて,第一目標のカモの修造にメールを送った。ついでに残りの二人にも同じメールを送った。
件名:美穂子です。度々のメールですみません 差出人:美穂子 <mihoko@msm.com> 何度もメールしてしまってごめんなさい!! なんだか変な悪戯メールから始まった訳ですけど、 宜しければメールの交換でもしてみませんか? 変に無神経だと思われるかもしれませんが、 こういうのも何かの縁ですし...というより最近引っ越した事もあり、周りにお話できる相手もいなくて...迷惑かもしれませんが、 もし宜しければ、お話し相手になっていただければうれしいです。 |