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釣り師たち
© 2005 Dr.YIKAI

一 二つめのメールボックス
二 こませ
三 夜の池袋
四 エサの付いた釣り針
五 おみやげ


一 二つめのメールボックス

 それは修造のメールボックスに一通のメールが入ったときから始まった。
 そのメールの主は美穂子と名乗った。普段ならその手のメールは中身も見ずに消去してしまう修造だが,そのときは仲間たちでやっている同好の会のホームページを作っていたので,なんとなく中身を読んでみる気になった。
 インターネットの世界で流れているメールの九割は,スパムと言われている攻撃や広告のメールだというのが常識である。修造の二つあるメールボックスにも,毎日大量のこの手のメールが送りつけられてくる。
 修造がどうして二つものメールアドレスを持つようになったかというと,初めのメールアドレスは,修造がまだ働いていたときに会社で割り当てられたアドレスを私用の連絡に使ってしまい,それを会社から指摘されて,勤務評価にマイナスの点が付けられたのが出発点である。
 私用に使ったのは,修造が二十年近く仲間たちとやっている,同好の集まりの連絡をするためである。メールは電話と違い費用もかからず,仕事中も周りの連中に気を使わずに使えるので,ファックス以上の大革命だと修造は思った。
 バブルが弾ける前の会社では,社員が会社の電話で私用の連絡をしても大目に見ていた。それが,新しい世紀に入ってからは,仕事の時間や会社の機器を私的に使うことに対する監視が大変厳しくなった。
 二つめのメールアドレスがあるのは,退職後友人との連絡を取るために頻繁にメールを使うようになると,いつの間にかスパムメールがくるようになり,うっとうしいので,同好の士の連絡用に新たにフリーのメールアドレスを取ったためである。
 一つめのメールアドレスは,自宅からインターネットにつなぐためにプロバイダに加入した際にもらったもので,実質的には有料である。


 修造は中部地方にある県の海岸沿いの町の出身である。県立高校をかなり優秀な成績で卒業した修造は,友人達が,戦後大量に造られ駅弁大学と揶揄された新制大学に進む中,法律家になる望みを抱いて,都内の私大に進学した。
 現在でも,旧帝大やそれに準じる大学以外の地方の国立大や公立大には法学部はそう多くはない。修造が進学したころは法学部を持つ地方私大はほとんどなかった。
 しかし法曹への道は,田舎の高校で想像していた状況を遥かに越えるイバラの道であった。当時,司法官試験の合格率は三パーセントといわれ,十年くらいの司法試験浪人はざらであった。
 大学に入ると同時にこの現実を知った修造は,すぐに法曹を目指すことをあきらめ,司法試験コースを選択しなかった。修造の決断は正しかったと言える。司法試験を何回も受けて,アルバイトのようなことで生計を立てている級友を尻目に,修造が入った中堅企業は,おりからの高度成長に乗っかって,大企業と言われるようになった。
 修造の気質は営業には向かなかったので,そのころようやく陣営を整えつつあった,総務部の法務課で会社員生活を始めた。当時少なかった大卒社員,特に法学部出身者は企業にとっては貴重品だったのである。配属の希望は素直に受け入れられた。
 入社後すぐ,会社は株式を店頭市場に上場することになり,その準備に追われた。その後は,最近のような特許や海外との契約などの華やかなものではなく,株主総会の裏方が最大の仕事になった。いわば,総会屋や暴力団対策にその能力を発揮することが求められたのである。
 修造は,大学院へ進んで学園紛争をやっている友人ともときどき連絡をとり,赤提灯で社会の構造を悲憤慷慨することはあったが,仕事は真面目に続けていた。


 昨年,乳がんの再発が原因で他界した妻の恭子とは,職場で知り合った。当時会社にいた女子社員はほとんどが高卒か短大卒だった。恭子も都内のお嬢様学校を出て,その上に用意されていた女子短大を卒業した。花嫁修業として,恭子の父親の知り合いが社長をしている修造の会社に,修造より二年遅れて入社してきた。
 父親との関係からか,社長は恭子を残業が多い営業などには回さずに,修造と同じ総務部の秘書課に配属した。修造は翌年の春の総務部の社員旅行で恭子と知り合った。というよりは,将来性がある男性社員を恭子に選んでやって欲しいという,社長からの密かな希望を受けた総務部長が,意図的に修造に紹介したようである。
 地方の出身で,それまで女性関係がなかった修造にとって,初めて仕事以外で親しく話をした女性であると言えよう。もちろん,仕事や友人達と出かけたバーやクラブで水商売の女と話すことはあったが,当時は,堅気の女性とはまったく別の人種であった。
 部長の口添えがあったためか,恭子との付き合いはすぐ始まった。三ヶ月後に,社長から恭子の両親へ挨拶に行くように指示された。法学部卒ということで信用されたのかもしれないが,恭子の父親の大学の後輩であることが判明したことが,話を進めることになった大きな理由だったようだ。
 翌年初めに,社長夫妻を仲人として二人は結婚した。子供は男女を生み分けた。年上の長女は出版関係で生きたいと,文学部に進んだ。
 「わたしなんか二十二で結婚したのに。」恭子は長女の将来を心配した。
 「時代が違うよ。」修造は答えた。
 しかし長女は,いつの間にか台湾の事業家の後継ぎと一緒になり,亭主の勤務先のサンフランシスコで暮らしている。
 倅は,理系の大学院へ進み,外資系の情報産業に入り,やはり日米間を飛び回っている。まだ独り身で,日本にいるときは修造のマンションを拠点としてはいるが,ほとんど食事を一緒に摂ったことはない。朝は修造が寝床にいるうちに,食事抜きで出かけて行く。夜は外食,週末は友人と出かけるというありさまである。


 修造がメールを受け取ったのは,たまたま倅が自宅のソファーでひっくり返って,漫画を読んでいた日曜日の午前中である。修造はたまには飯でもと倅を誘いだし,近所のファミリーレストランへ出かけた。
 遅いモーニングとビールを注文して,修造は印刷したメールを倅に見せて訊いた。
 「どう思う。」
 美穂子なる人物名で,二つめのメールアドレスに送られて来たメールの内容は,つぎのようなものだった。

件名:こちらの送信アドレスに見覚えはございますか?
差出人:美穂子 <mihoko@msm.com>

私のメールボックスに↓のようなメールが来てたんですが、
どういったご用件でしょうか?
送信者様のメールアドレスが私のアドレス帳に登録はなかっので不思議に思いこのように返信してみました。
I am in the States . Please do not bother me and get a happy life.
I am sure you understand a bit of English.

 倅は一目見て,吐き捨てるように言った。
 「新手の詐欺だよ。スパムメールを受信して困ったふりをして,引っかかる男をエロサイトへ誘導して金を巻き上げるか,デートの約束をさせて,怖いお兄さんが出てくる美人局さ。」
 「悲劇の主人公を演じて,降り込め詐欺を目論んでいるかもしれないよ。放置が最善。」
 修造は黙って,宙を見つめて瞑想に耽った。倅はビールを飲みながら持って来た漫画を読んでいる。


 修造は,一応法律を業務としてきたし,怖い方々との付き合いも少なからずあった。メールを見たときの第一印象も倅とまったく同じであった。
 まだ五十代に入ったばかりの恭子に乳がんが見つかり,三年後に骨転移が見つかったときに,修造は思い切って会社を辞め,看病に専念した。まだ動ける内にと,放射線治療やつらい抗癌剤治療の合間に,仕事にかまけて長年不義理をしてきた恭子と二人で,行きたかったところへ旅行もした。二人の新婚旅行先は,当時ハワイの代用と宣伝された,宮崎の日南海岸をメインとする九州駆け足旅行だった
 社長の仲人で結婚したくらいであるから,修造は本来重役候補であったが,ご多分にもれずバブル時の無理がたたったこの会社は,このころ債務超過寸前に陥り,外資の助けでようやく一息ついた状態であった。
 メールを含む私用の管理がうるさくなったのも,外資が入ってきてからのことである。前にも述べたように,一つめのメールアドレスはこのときに取った。
 法務課は法務部に昇格したが,部長には,修造の仲人をしてくれた前社長の長男が社長になったとき,弁護士を開業していた長男の友人が引き抜かれて就任した。修造は,何と部長が課長を兼任する株主課の課長補佐でしかなかった。
 入社したときは,修造がほとんどたった一人の法律専門家だったが,バブルの崩壊後は,長年やってきた特殊株主対策だけのために,給料をもらっている状態だった。その特殊株主対策も,外資が取締役を派遣してからは,不要の仕事であると見なされていた。
 課長補佐の身で,情報管理部門の役員に呼び出されて,始末書を書かされてからは,会社での将来は完全に暗いものとなった。恭子への罪ほろぼしもさることながら,修造が会社にいたままだとすると,すでに親元とは縁が薄くなっている恭子の日常の看護は,娘が国内にいない以上,他人に依存するしかなかった。修造にはそれは忍びなかったし,一緒にいる時間も無性に欲しくなった。
 定年にはまだ二,三年あったが,退職金だって今なら割り増しが貰える。それを食いつぶして,入院費用と年金が出るまでの生計に使えば十分。少ないながら貯蓄もあるし,マンションのローンはないし,子供は成人している,ということで潔く退職した。看病という退職理由も問題なく通り,本来不要な役職にいた修造を引き止める動きはまったくなく,三十数年勤め上げた会社を静かに去った。


 昨年恭子を看取り,事後の始末を終えた修造は,言いようがない虚脱感に襲われた。やはり会社を辞めなければよかったかな,という後悔が頭を過ったが,それも趣味の釣りに出かけることで,紛らわすことにした。
 修造の釣りは,故郷の町にいたときからのものである。太平洋を望むこの町は,漁業で生計を立てている家庭は少なく,温暖な気候を利用したハウス野菜や花卉・園芸などの農家が多かった。その中で次男である修造の実家は,特定郵便局の局長をやっている半農のこじんまりとした家だった。
 家を継いだ兄はすでに郵便局長を引退し,手厚い国家公務員の年金でのんびりと暮らしている。兄の長男は郵便局の仕事を嫌ったので,局長には年配の人のよさそうな人物が,次男が引き継ぐまで局を預かっいるが,
 「これも民営化されるとどうなるかわからない,オレはいい時代に生きた。」とかろうじて戦前生まれの兄は笑って言っていた。
 郵便局の仕事の見習いもする必要がなかった修造だけが,四人の子供の中で一人だけ大学へ行かせてもらった。特定郵便局として国に貸している局舎の家賃収入が,修造の学費に充てられた。
 口数が多くはなかった修造は,一人で居ることが多く,釣りは一人でできるために,中学生のころから趣味にしていた。東洋の君子,などと気どって太公望を装っていたが,だれも拾いには来てくれなかった。
 結婚してからも,時間を見つけては釣りに出かけた。海辺に育ったにもかかわらず,海釣りはやらず,さりとて渓流へ分け入るではなく,鮒や鯉などを釣って満足していた。ブラックバスなどの外来魚は,海釣りと変らないとして嫌った。そのためか,割と気楽に出かけられるので,子供が出来るまでは必ず恭子と共に出かけた。
 熱烈な恋愛をしたわけではなく,なんとなく仲人口に乗っかって結婚した割には,二人は静かに愛し合っていた。倅が大学へ入って,子育てが一段落してからは,一,二ヶ月に一回は,横利根川などに出かけた。
 河でのんびり釣るのは,海釣りの醍醐味にはかなわないが,手軽さと意外と難しい魚との駆け引きが面白いことがメリットである。金満家育ちでない修造は,このように手堅いのが取柄であった。最初に恭子を釣行に誘ったのは,まだ婚約中のときだったが,
 「食べもしない魚を釣ってどうするの?」と言われたことが,今も耳の底に残っている。


 「釣りかぁ〜。」修造が突然吐き出すと,倅はびっくりして言った。
 「そう,ホームページから変なところへ誘導するのをフィッシングと言うんだ。」
 「魚はいつも釣ってばかりいたんだが,俺の仕事はいかに釣られないかということだったんだ。」修造が言うと,
 「もっと毎日釣りに行けば。気が晴れるよ。」倅はとんちんかんなことを言う。
 「いや,フィッシング・メールだ。」
 「止めとけよ。危険だよ。」
 「怖いお兄さんにも,最近は会っていないし。」
 「違うんだ,オヤジが相手していた企業舎弟とは。退屈しのぎにならないよ。すぐ刃物を振り回すガキどもがやってるんだから。」倅は本気になって心配し出した。
 でも,修造の心はすでに決まっていた。株主課の課長補佐の眼差しをしていたのだ。修造は,釣られる魚の側の駆け引きをいかにするかに,頭を回し始めた。
 家へ帰ると,怪しいメールに返信を出した。

件名:Re:こちらの送信アドレスに見覚えはございますか?
送信先:美穂子 <mihoko@msm.com>

 美穂子様
 始めまして。
> 私のメールボックスに↓のようなメールが来てたんですが、
> どういったご用件でしょうか?
 たいへん,不愉快なメールが届いたようです。犯人は小生ではござい
ません。
> 送信者様のメールアドレスが私のアドレス帳に登録はなかっので
> 不思議に思いこのように返信してみました。
 これはスパムメールと言って,ウイルスなどの被害に遭って,小生の
メールの送付先から流出したメールアドレスを騙って,同じく流出した
あなた様のメールアドレスに送られたものです。
 メールのヘッダを見れば,多分私が使っているプロバイダではないと
ころから送られてきているのが,判ると思われます。

 スパムメールの受信を装って,フィッシングを仕掛けてきたのであるから,引っかかった振りをしなければならない。なるべくうまく書いたつもりである。相手の実態が判らない以上,のらりくらりと釣られた振りをして,手口を探り出さねば,と考えた。
 修造のメールアドレスをどこから拾ったかわからないが,趣味のホームページにアドレスを公開している以上,修造のプロファイルは相手には割れているはずである。事実,修造は自分のメールアドレスをググッたら,修造が作っているホームページが出てきた。 


以下続く