Dr. YIKAI の言いたい放題「日本の世相と中国関係」
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2004年6月14日 判りにくい表現や誤字脱字を全面改定
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2001年12月19日 | 静岡空港 | |
2001年12月31日 | 中国のWTO加盟 | |
2002年1月12日 | 中国での技術開発 | |
2002年1月22日 | NGOへの外務省の恫喝 | |
2002年3月16日 | XBox | |
2002年9月9日 | 重陽の節句 | |
2002年9月29日 | 下馬威 | |
2002年10月2日 | 渇しても盗泉の水は飲まず | |
2002年10月17日 | 役得 | |
2002年12月22日 | 冬至と米百俵 |
2001年12月19日 静岡空港
バブルでふやけた大豆3粒で作った豆腐にも及ばない脳味噌しか持たない県知事と県議会は,当面の利権を確保するために,静岡空港の建設を断行することを今日決定した。TVを見ていたら,「たとえ赤字になったとしても建設する。」と公言している。馬鹿馬鹿しくて聞いていられない発言である。どうせ赤字になって責任を取る事態に陥る頃には,高額の退職金を貰って引退してしまって安全だと思っているのだ。
無駄の極みあるいは利権の極みの見本である,本州と四国の間に架けた3本の橋の静岡県民版である。だれがこの赤字を払うのだろう? 静岡県民だけなら,日本のそばの半島北部で行われている政治と同じことで,われわれは高みの見物を決め込んでいてもよいのだが,実際にはこの半島北部へ兆という大金を送金したとされる半島北部の系列金融機関の破綻処理に,日本人の税金が使われることになっているのだ。
この県の多くの政治家や一部の県民の利権を維持するために作られる空港によって,将来必ず県民だけではない日本中のわれわれが払った税金から赤字を補填する義務を負うのだ。
すでに日本中でこのようなことが行われてきて,国際的に通用するbusinessを立ち上げる努力を怠った結果,現在の不況があるのだ。決して特定の企業体や政治家,個人の行動が惹き起こした問題ではない。
このような行動にはほとんどすべての日本人が,「自分には関係がない。」とか,多少の利権にあり付けるために目をつぶって見ないことにしてきた。それが時の政権党へ無批判な1票を投ずる理由とされてきた。今度は「利権構造を壊してやる。」と絶叫だけを繰り返している小泉総理を出した政党の支持率が上がっているという。
ほんとに日本人はバカ丸出しということを地で行っている。この小泉総理を出した政党に属していたり,推薦を受けているこれらの連中の過去・現在の不埒な行為の結果が今や不況となって,自分達の身の上に降りかかってきているということを忘れないでほしい。
2001年12月31日 中国のWTO加盟
今月11日に中国がWTO(昔のGATT)に加盟した。原理的にはWTO加盟は,発展途上国という権利を放棄することである。それでも中国がWTO加盟にこだわったのは,大国としての面子だけではなく,実務面でも自分の国の都合ばかり主張していては,これ以上の経済発展がむつかしくなってきたからである。
中国は伝統的に朝貢貿易という形を取って外国に対峙してきた。すなわち,世界で一番えらい中国の皇帝に貢ぎものを持っていくと,それに対してごほうびをくれるという形である。この方法では,貿易を望むものは中国皇帝の臣下として礼を取らねばならない。
この考えは,中国共産党が主権を取ってからも続けられた。日本から進出した企業では,「つまらないことで難癖を付けられて,現地法人ごとすべての設備と生産技術を奪われる。」などということが常時発生した。しかもその行為を正当化する発言として,「日本は中国侵略の賠償をいまだしていないし,南京事件などはなかったと主張する一派が日本では歴史教科書の執筆者として影響力を発揮している。」などという畑違いの暴言を浴びせられることもある。
このようなことになる日本側の大きな原因の一つに,今の小泉総理が積極的に靖国神社参拝をしたことに現れたような日本側の認識の浅さと歴史的な対応のまずさがある。しかし,一番大きな原因は中国に進出した企業側の拝金主義と中国人の考え方に対する無知とにあると思われる。
中国のWTO加盟は,この中国的な価値基準への理解が浅くても中国に進出できるような環境を中国側が用意するということである。
でもこのことと,Microsoft社などを中心としたAmerican Standardの粗悪品を,Global Standardとして押しつけることが認められること,とは別である。
残念ながら日本では,Microsoft社の粗悪品のOSはパソコンへのpre-install品として強制的に普及させられた。日本の文化を無視した出来が悪いワープロのWordも押売りされている。中国もWTO加盟に伴ってパソコンの生産基地として強制的にMicrosoft社の草刈り場になる愚を犯さないかどうかを見守って行きたい。米国流強引商法と中国的朝貢貿易の激突劇を傍観しているだけでは。日本の将来は危ういのであるが,どうすればよいのであろうか。
2002年1月12日 中国での技術開発
デジカメのnewsを眺めていたら,「デジカメで日本の業界第2位の地歩を占めるオリンパス(ちなみに第一位はキャノン)がこの部門大赤字で,国内4箇所の拠点を集約すると共に中国での開発・生産を模索する模様である。」という記事があった。
衣料品,食料品や安価な家電製品・単なる部品の組み合わせに過ぎないパソコンなどの開発・生産が中国に集中するのは,奥地の農村部で年収2,000人民幣(元,1元約17円)の状況下では当然である。既得利権にがんじがらめになった日本で単純な生産をすることは,これらの利権を持つ人々の懐を潤すだけで,国の将来に何も利益をもたらさない。
キャノンのように古くから中国に進出した企業は,世界企業としての地歩をすでに確立している。オリンパスはcamera会社ではあるが,長い間多くの利益を医科用の内視鏡で上げてきた。私も医学研究者から依頼を受けた医学用の研究機器を作るにあたって,オリンパスからの援助で完成させたことがある。当然ながら私に対する援助ではなく,内視鏡の開発に多大な貢献があった医学研究者のための援助ではあったが,気前が良い会社だったという印象が強い。
このように絶対的に強い商品を持つと,それ自体が既得権となって次への展開が遅くなるのが常である。デジカメ部門自体の赤字は,過剰在庫が原因と伝えられているが,それも,市場の規模や購買の中心となる商品の変遷を,既得権的な考え方に惑わされて読み取れなかったのが原因であろう。
では中国にデジカメの製品開発と生産を移転すればオリンパスは赤字がなくなって,世界市場での覇権がとれるかというと,簡単には結論が出ないであろう。Cameraのような高度の技術を埋めこんだ商品でも,製造をどこで行うかについては,国内海外の差異ない。
しかし,開発となると議論は別である。Program程度なら開発の舞台を中国に移しても,国内に引き上げたり他の国に移転するのは容易である。ところが,hardwareを含む開発はsystemであることを忘れてはならない。一度systemを構築すると,そこから引き上げたり移転したりすることは,設備の点だけではなく人間や外部の協力者などの構造から見ても簡単ではない。
多くの企業が,今回のオリンパスについて伝え聞くような方向を検討していると思われる。言えることは,開発部門を中国に進出することは,「決して日本の部門の代替ではなく,まず中国市場のための中国人による製品開発を行うという方針を立てるべきである。」ということである。国内の赤字を解消するために進出するという姿勢では,多分成功はおぼつかないと思われる。
中国は,褒ジ(女以)と幽王がつぶした周王朝が洛陽を都にして再興して以来,約550年間の春秋戦国時代を経験している。世界史上最長の戦乱時代である。中国人のものの考え方の基本はこの時代に確立された。中国に進出するということは,この歴史的に成り立っている考えを理解するということである。明治初期には豊かな漢学の素養に恵まれた政治家がまだ多くいて,中国人のものの考え方を漢文というまわりくどい手法で,まがりなりにも理解していた。(註)
19世紀末に清国を打ち破って賠償金を得た頃から,明治初期の脱亜入欧の考えの普及もあって日本人の中国に対する侮蔑感が強くなってきた。それは1930年頃には頂点に達し,そのまま中国大陸への侵略となっていった。敗戦後,米国の占領下にある間に大陸に共産党政権が成立したために,日本人の中国観は1930年代のままで修正されることがなかった。あの長州軍閥の元老山県有朋でさえ,安易な中国への軍事進出に反対であったことを思い起こして欲しい。
単なるcost downや中国市場の獲得のみを目指して,軍隊ではなく工場を進出することは,現在に於いては戦争を始めることと同意義である。中国政府が投資を歓迎しているという見方は,もしかすると国民党政権や共産党政府が奥地に引っ込んだ際に,王兆名政権を利用していた形の再来になりかねない。中国が期待しているのは,中国自身の手で国際的に通用する産業を育てることである。
真に歴史に学ぶ,ということは非常にむつかしいことである。羹に懲りて膾を吹くという,経験に学ぶ姿勢が,2001年9月11日以来の自衛隊の派遣騒動からも分かるように,日本人の主流の考え方である。単なる経済的な価値判断だけでなく,背景にあるものを理解して行動することが,米国による単純なglobal化に対する日本の生き方ではなかろうか。
註:
残念ながら現在の時点の日本には,中国語ができる代議士は加藤(紘)氏と武見氏しかいない。漢学の素養がある人といっても,せいぜい儒学による王権重視の復古主義者であり,中国を理解しているとは言えない。
もっとも英語が出来るという現在の小泉総理や外相も,買い物ができるという水準を大きく出てはいないのであり,タリバーンの連中が英語で話すのを見ていると恥ずかしい限りである。
2002年1月22日 NGOへの外務省の恫喝
昨日のアフガン支援会議への日本のNGOの出席を外務省が拒否した。大使館の中でふんぞり返って,苦難に陥っている日本人旅行者や,国外に進出した企業が,工場ごと訳がわからない理屈で進出先の国に乗っ取られても,知らぬ顔を決め込んでいる外務省の役人たちは,自分の利権が犯される危険を感じた議員と連携して,NGOを今後のアフガン復興から締め出そうと狙っている。
海外の復興事業に対する援助は,過去の韓国やインドネシアの例を見るまでもなく,議員共の利権の源である。ところが時代が変わり,援助の主力はお金ではなく人の時代になっている。軍服を着た自衛隊では,現地の人の心を理解したり親しくなることはむつかしい。
現地の人たちが自分の力で国を立ち上げられるように,企画を立てたり,教育訓練をしたり,協同作業をしたりすることが援助であるという認識になっている。その人材の主力はNGOである,ということがいまや世界の常識である。
もちろんそのための建築物や資材,それらNGOの人が活動できるような生活費や活動費は必要である。ただ現地にUS$や食料をばらまいて済むわけではない。日本の外務省はこのような現地との人脈作りはまったく興味がなく,ただただ王侯貴族のような豪華な生活と華やかな社交に明け暮れていた。
日本から現地視察に訪れた議員たちを接待し,彼らが関係する日本の企業に,日本の援助で行う建設や物資の調達に参加する便を図るのが,大使館員たちの唯一の仕事である。もちろん自分たちの取り分もちゃっかり議員の威光の影で確保することを忘れてはいない。
このようなことは,すでに世界中の国やNGOがすべて知っていることであり,そのような背景下で今度の会議に「政府の行動を批判するようは輩は会議から締め出す。」と自民党の鈴木宗男議員が堂々と発言するなどは,世界中から笑われてもしかたがないことである。
反対の意見を持つ者はすべて締め出す,という方針の国は日本の周りにはいくつかある。この議員の言い分は,日本をそれらの国と同じ政治体制にしたい,ということと同じである。その結果は無謀な中国進出であり,1945年の敗戦である。
日本の国会議員という肩書きだけで,現地の有力者と親しくなったつもりになっても,連中は議員の後ろに見える金が欲しいだけであるから,現地の有力者が凋落すればそれまでである。また現地の民衆は,誰が本当に自分たちを助けてくれているかを,自分の目で確かめているから,NGOに対する恫喝は,まったく無意味なだけでなく,かえって議員共と外務省の腹の中を再確認させ,世界に冠たる利権構造が健在であることを露呈してしまった。
追加 2004年6月14日
自民党の鈴木宗男議員はその後逮捕され,出所後すぐの選挙には病気のために出馬できなかった。政権党の中で辣腕を振るった議員でも,世論の前で不利になれば容赦なく切り捨てて身の安全を図る集団がこの国を動かしているのだ。政権党内に基盤を持たない今の小泉総理が,世論ばかりを気にして情報操作と紋切り型は応対で,頭がふやけた国民を騙している様は,この集団に見放されないためである。
2002年3月16日 XBox
去る2月22日発売の,Microsoft社が威信をかけてSonyのPS2潰しを狙ったXBoxの売れ行きが3月15日に明らかになった。発売3週間の累計は17万2千台で,第1週の12万4千台以降は同じ週のPS2の7万1千台の半分以下の3万7千台,第3週は1万1千台と任天堂のゲームキューブ並みに落ち込んだ。
売れ行き不振の大きな原因は,ゲームやVideoのDVDに原因不明の傷がつくという不具合に,Microsoft社の対応が悪いという点にあると思われている。しかし不振は,興味を惹くsoftwareがDOA3一つしかないというconsumer
userを馬鹿にした態度が大きな原因ではなかろうか。Microsoft社は日本市場では損をしても,欧州市場では米国と同じsoftwareが投入できるから,世界制覇には問題はない,としている。「日本の不具合問題も丁寧に対応した。」と将来への不安を一蹴して,14日に欧州市場へ日本の倍近い価格($399)で参入した。
今後の各ゲーム機の展開がどうなるかをいま占うのはむつかしいが,企業文化という点から大胆な予測をしてみる。
Microsoft社の企業文化は,有名な「伽藍とバサール」という文化評論で槍玉に上がっているように,極めて中央集権的な帝国の発想である。現在の米国は内部的にはその構成員である州の集まりからなっていて極めて民主的な政治権力を構成してはいるが,対外的な行動は伝統的な帝国そのものである。Microsoft社も内部と外部に関してはこの米国政府と同様であろう。
Linuxの世界が,集合離散が自在なbazar的文化で構築されていることに比べると,Cathedralはその存在自体は威圧感を持ってはいるが,内部が空洞化していることに自他共に気がつかない場合が多い。XBoxもこの発想下で開発された。「世界最強のsoftware会社が作っているから信用しろ。」という考え方である。
米国流の民主主義は,18〜19世紀型の帝国に比べればたしかに進歩した形態ではある。しかしその行動様式が帝国主義的であるということは,組織の構造が進歩する途中の形態でしかないと考えられる。
2002年9月9日 重陽の節句
今日は9月9日,重陽の節句というわけである。実際には重陽の日は旧暦の9月9日だから,時期的にはもう少し後になり,菊の節句とも言われている。もちろんこの伝統も中国から渡って来たものである。土台,天皇家の紋章になっている「菊」自体が「梅」などより後の時期に漢字の文化と共に伝来した植物である。その証拠にこの字には訓読みがない。「ウメ」もじつは訓読みではなく,中国語の古代音を梅の伝来当時の日本語の原則(語頭に[m]の音が立ちにくい)に従って[u]の音を付けて受入れたもので,現代北方中国語の発音[mei]と共通点がある。馬もこれと同じ経緯の単語である。
時期はまさに日中国交回復30周年という,本来祝賀気分の状況であるはずであるが,現実は日本の小泉総理が訪中することさえままならないほど,中国が自信を深めている。
日本が本来得意とした安物家電製品のみならず,高級家電製品までも手を出そうとしているし,多分それに成功しつつある。原因は開発要員の多さとその水準の高さである。日本国内の技術開発にかかるcost高に業を煮やした日本企業は,陸続として中国の大学やその周辺企業と提携して,量産水準の開発拠点を中国に築きつつある。
日本国内のcostは単に米国やEUの2倍もの給料を取る技術者個人の問題ではなく,それを運営している企業体の不要な人員のcostと企業や個人に課せられる社会的なcostにある。
国際水準から見てバカ高い公共料金(電気・燃料・交通費)・家賃(住宅都市整備公団の家賃がなぜ民間より高い?)・食料品費(外食費)・無駄な税金を食う人々の数などにより,現在の給料でも生活が苦しいのは事実である。
しかし,現在の日本では「フリーター」の名の下に非熟練労働者の賃金は米国やEU水準かそれ以下になっている。また技術者も派遣業法の変更により自由に使い捨てが出来るようになり,さらに「フリーランサー」という個人企業化を押しつけることにより,企業内技術者の半額(米国並み)で使えるsystemが完成しつつある。すでに日本の若年層の平均給料は国際水準まで低下している。技術者の高給が原因で中国へ怒濤の進出をしているのではない。
一方,現在の中国は建前上社会主義国であるにもかかわらず,事実上日本の「フリーランサー」と変らないsystemがすでに出来上がっている。この意味では彼我の競争条件は同じであると見てもよい。あとは技術者個人の質と,周辺costの問題である。事実上の社会主義国である日本が如何に早く高cost状態から脱却するかが,小泉改革だったはずだが・・・。
政権党内の思想的に右翼な政治家ほど,この高costな社会主義的日本が好ましいらしい。故司馬遼太郎がバブル最盛期にいみじくも,「日本人は見にくくなくなりました。」と言ったことは,社会主義的保たれあいのcost高に浸かっている今の日本人に対して正鵠な発言である。
私も,堺屋太一氏が言うところの「何もしなかった日本」が「平成30年」を迎えるまでに,黄泉路を辿りたいものである。
2002年9月29日 下馬威
最近,ここ10年来あるいは近ごろ中国に進出した会社の幹部の方々の話を伺う機会があった。その方々の中国人の行動などに対する論評はいろいろあったが,大体以下のようなことであった。
中国と観光旅行以外で関係を持った人は,少なからずこのような経験談に類する体験をしていると思われる。実際,観光旅行ならただ一方的にお金を落とすだけなので,かれらとのかかわりも少ないが,仕事をするとなると,このようなことで相手に不信感を持ってしまうと,所期の目的が達成できない虞がある。
このようなときに日本人が取る態度には二種類ある。外務省なども同じような行動をしている。すなわち,自分が有利だと思ったら徹底的に高姿勢に出る。もし多少不利でも頑張る。もう一つの姿勢は,卑屈になって今回の対半島北部の国に対する交渉時の外務省のような行動をする。
相手の国と国民の考え方を理解する(同意するわけではない)には,ある程度の理論武装が必要である。1980年代を最後に,戦前から中国と中国人を理解している日本人の層が高齢になり,現役を離れてしまった。中国側の事情も同じで,戦前の日本留学組が権力の中枢から退いてしまった。
現在,日中交流は盛んになり,多くの人がお互いの国に行き来をしているが,戦前にあった相手を理解するような教育体制(たとえば上海にあった日本の官立大学の東亜同文書院大学など)はお互いになくなってしまった。文化大革命の余波で,戦前からの伝統を持つ非思想的な中国語教育機関も日本から一旦消えてしまった。
このようなことから,日本人の現状は,中国人のものの考え方の根底にあるものを体得することなく,表面的にお互いに相手を見て,自己流で理解した形になっている。これが,傲慢かつ狡猾な中国人像という反中国的な人が好む理解を,日本の特定の政治家だけでなく,国民一般に拡げている。
もちろん中国では,共産党の指導下の学校教育の中ですさまじい限りの反日教育をした結果,外国人と接触したことがないほとんどの中国人は日本人を日本鬼子であると信じて疑わない。このような背景下で,仕事を順調に行うにはどうすればよいであろうか。
相手を理解するためには,一種の理論武装が必要であると述べた。経験主義では,群盲になってしまう。もっとも,理論武装と言ってもなにも難しい論文や解説書を読む必要はない。たとえば日本の時代小説のような「武侠小説」を読むのも一法である。香港の人で「金庸」という作家がおり,香港・台湾や世界の華僑の間だけでなく,大陸においてもたくさんの愛読者がいる。その人気は,日本の吉川英治や山岡壮八の比ではない。日本語訳が徳間書店から出ているが,何れも数巻にわたる長編小説なので,出張などの移動中や空港などでの待ち時間に,仕事のことを考える手を休めて読むとよい。
この人の小説は中国人のものの考え方をよく反映している。読んだという事実だけでも,愛読者の中国人との食事中の会話が弾むことがある。私は普段から中国人と付き合うには「中国人と親戚になれ。」と言っている。何も家族の誰かが結婚しなければならないのではなく,親戚同様の付き合い,義兄弟と言い換えてもよい。
謂れがない対中恐怖心や侮蔑感はどちらも損である。かれらは四千年かかってあのような思考法を身につけたのである。これは王朝が交代して,宦官支配から共産党の書記局支配になっても変らない真理であろう。
2004年4月6日 誤字訂正
2002年10月2日 渇しても盗泉の水は飲まず
「武士は食わねど高楊枝」という言葉はこの国ではとっくに死語となっている。でも「渇しても盗泉の水は飲まず。」という言葉までも死語になっていたとは,気が付かなかったのは,私の不徳というか耄碌というか,この国の将来のためにも残念なことである。
北海道の西友のある店が,過去一年間輸入肉を国産肉と偽って売っていたお詫びに,レシートなしでも返金に応じるという怪挙(快挙の誤植ではない)に出た。西友の幹部はまだ日本人は昔の日本人の気概を持っていると,私と同じような幻想を抱いていたのだ。中国では魯迅が言うように「水に落ちた狗は打て。」という考え方があるくらいで,このような愚挙をやれば結果は解り切っているから,最初から北海道の一地方の住民の考え方を調査するために五千万円もの調査費を払うことはないであろう。
ところが日本人はいつの間にか,鈴木宗男の例を引くまでもなく今回の件のように中国人と同じような行動をするようになってしまった。それなら他のすべての行動も中国人と同じようにしなければ,辻褄が合わない。西友に詰めかけた連中の大半は若者だったというが,TVで見ていると,明らかにそんな大量に高級豚肉を買ったことがないような格好で来た中高年が,馬鹿者に混じって同じような主張をしていた。日本人はいつの間にか司馬遼太郎が言う通りの「さもしい人間」になってしまった。
たとえば,国が一部の国民に一律2万円を配るなどという愚行は,今回の西友の件と何ら変わりはない。あの配布のとき15才を越えていてこの利権にありつかなかった若者が今回騒いでいるとしたら,政治家が今回の件のお手本を示したということで滑稽である。
このようにこの件では,若者の行為だけを責められない。かれらが,日本に密入国して悪事に走っている不良中国人並みなのは当然として,そのようにしなければ損だという日本の風潮を育てた政治家や文部省(以前の呼称を使う)の方針が問題である。長いもの(役所や政治家)に捲かれたりぶら下がると,他人より巧い汁が吸えるという実情を若者に知らせないために,文部省と頭が古い政治家たちは,自分たちの利権を守るためにも国民に自分で考える力を付けさせないようにしてきた。
連中は,共産革命的な教育をする力などは1960年代にすでに失われていたにも拘らず,日教組の偏向教育の危険を煽りたてて,道徳教育や復古的教科書という別の偏向教育に走り,人間本来の生き方や仕事の興味を育てるまともな教育systemを構築する仕事を意図的にサボってきた。
しかし,利権の匂いは人間は本能で嗅ぎつける。現世への志向を完全に忘れるために社会との接触を断ち,厳格な戒律を課すCatholicの修道院のようなことはできない。事実国中がCatholicの修道院では経済が成り立たないのだ。もし,日本のそばの半島北部の国のように徹底的に教育しても,利権への執着はむしろ強くなる。半島北部の国の現状はそれを表わしている。
ところで,権力を持つ立場にいたり,それにつながって利権を維持するということは,中国ではひとたび権力を失えば「族滅」(七親等位まで殺される)という利権と裏腹な危険に瀕していることを理解しなければならない。中国ではそれが常識である。
ところが,日本では「死者には鞭打つな。」,「死ねば仏か軍神だ。」などという考え方がある。この日本の思考と「悪い奴は死んだ後でも悪い。」という中国の考えの差が,靖国問題で日本と韓国・中国との間で根本的に意見が合わない部分である。生きているときはどんなに利権を利用して悪どいやり方をしても,死んだら神や仏になれるなら,こんなにありがたいことはない。
本来日本人は「死んだら神や仏になる。」ために,生前も「人様に後指を指されない。」ように自分の生き方を謹んできた。ここが「地獄の沙汰も金次第」を実際に行動規範として持っていて,死者のために紙銭を焼く中国人との違いである。
すなわち中国人と同じ覚悟がないまま,中国人と同じように立ち回る日本人が増えている。いや,禁止農薬を使う農家など,かなり多くの日本人がすでにそうなってしまっている。このような状態でわれわれが中国人の行動に嫌悪感を持っても,彼らに嘲笑われるだけである。
日本人は本来の謙虚さを再構築しないと,多分できが悪い中国の一つの省として,日本省とか東洋省とかの立場にならざるを得ない。今の倫理観や行動様式からすると米国のNippon
stateにはなれないと思われる。
「日出ずる所の天子」と聖徳太子が言い切ったときの気概には,いま失くしてしまいつつある日本人像が背景にあったと思う。自分だけうまいこと利権を手に入れて,権力から転げ落ちた時にも神や仏になろうなどという甘い考えでは,世界を相手にやっていけないどころか,昔の日本人にも毛嫌いされることは必定である。
日本人の心の拠り所は情であるが,他の国は違う。たとえば,朝鮮の王朝は自己の行動規範を作ることを模索する代わりに,中国では単なる統治思想でしかない儒教を国民の行動の拠り所とすることにした。各国の国内ではその行動原理に基づいた利権と責任の取り方がある。いろいろな国の都合がよいところだけ集めて行動しては,政治三流だけではなく国民三流と言われてしまう。
では,本来の自律ができた日本人に戻すにはどうすればよいのであろうか。薬は利権構造の打破しかない。軽々しく利権を弄ばないように,利権には責任を伴わせて,利権を持つ者に対し厳しく対処するのである。でも,それは残念ながらいまの小泉総理や野党の党首では無理なようである。
註
この項を執筆したときの野党の党首は鳩山さんである。
2002年10月17日 役得
半島北部の国による日本人拉致行為が大騒ぎになっている。ところで今回の交渉のために半島北部を訪問した小泉総理たちは何かお土産を貰ったらしい。飛行場で作業する人の口からだって漏れるのは当然の事なのに,しらばっくれようとした。
認めざるを得なくなると,「大したものじゃない。」,「生ものなので処理(分配)を急いだ。」「相手の立場がある。」などと言い逃れている。これについては官房長官も同罪だ。多分おこぼれが回って来たのだろう。
中国では戦争相手の将軍を寝返らせるのによく金品や美女を用いた。三国演義を読めば至る所にこのような策略が出てくる。だから,誰かが何かを私蔵したことがばれると即刻打ち首となった。小泉総理以下外務省の役人はキノコを誰がどれだけ貰ってどう始末したのか公表する義務がある。
公開した上で,訪問の疲れを癒すために宴会で食したというのなら,国民は理解する。ところが役得ということで,政府や役所の幹部の自宅で密かに食用に供されたとしたら,半島北部の将軍様の思う壷である。戦争相手からの贈り物であるから,次回のお土産にはきっと毒が仕込まれていると考えてよい。伝統中国ならそうした。
役得があったら公開して堂々と受け取ろう。そうすれば毒殺される心配も少なくなるし,なによりその役得を目指して田中角栄や鈴木宗男のように頑張る人も出てくるかもしれない。
二世議員や三世目にやっとなれた首相の下で,日本中が二世的平和ボケを貪っている。企業家や学者も直接的な二世だけでなく,子飼いなどという温室育ちというか,企業内や大学内の派閥争いでtopの地位や有名人になった人物が,日本の経済や学問を仕切っていてはだめである。役得には毒があるのである。
住民税を逃れている経済金融担当相といい,学者や政治家の二世や三世は意地汚くて見るに耐えない。連中は子供のころから,利権を求めていろいろな贈り物が回ってくる役得の世界に生きてきている。それが習慣となり,何も感じないのだ。事実上の戦争相手から貰ったものを私する行為は,戦場で起きたと考えれば軍法会議ものではなかろうか。
役得自体は完全に否定する気はないが,そのようなことを既得権として横行させている社会は,新しい考えや行動に対して非常に保守的で,無駄な高速道路建設と同じようなことを屁理屈を付けてこそこそと多額の予算で強行していて,真に必要とされる教育予算や光cableには投資を渋っているような連中が支配している。
このような役得第一と考える社会構造は文化・経済を疲弊させ,中国の幾つかの王朝を衰退に導いた原因ともなっている。中国とは言わなくても日本の江戸幕府の衰退はどこに原因があるか考えて見るとよい。最近では,Novel賞になる研究すら商品にできない会社もある。政治家共と変らない役得社会の弊害が出ている気がする。
−追記−
10月18日付けの朝日新聞朝刊の「声」欄に杉並区の「渡辺美智子」(73)という人が,「とやかく言って詮索したら,これ以上の非礼はないでしょう。」とのたまわっている。 この方のご関係にも今回のキノコではなくても役得がたくさんあって,ごく自然に,「自分の役得についてとやかく言われている。」という心境なのかもしれない。
同じ欄で江東区の「赤池孝之」(67)という人は「国民にオープンにし,遠慮無く堂々と召し上がれ。」と主張している。例として米国の公人に模写の五十三次の絵を贈ったときの米国の対応について報告している。
前者は役得を既得権とする旧来の層を代表する意見で,後者はこれからの日本の行き方を示唆する意見である。前者の構造が日本を現状に至らしめていることを理解すべきである。
註
これを執筆したときの内閣官房長官は福田さんである。経済金融担当相は竹中さんである。
2002年12月22日 冬至と米百俵
一日の昼間の時間が一番短い日がやってきた。「一陽来復」のお札を張って,これから日一日と伸びる昼間の時間を噛み締めながら太陽の恵みをありがたいと思う日である。
日本の経済は,はたして冬至に至ったのであろうか。多分太陽を巡る軌道から外れて,宇宙空間を彷徨う人工彗星になっているのではなかろうか。先に答申書が出た道路公団の改革についても,担当大臣である宝塚上がりの自意識過剰人間が,役人に乗せられてすぐに無視するような発言をしている。
日本中に残りの高速道路を作ると経済がどのように浮上するかについて,この大臣や事務局,審議会の今井前委員長など道路建設推進派からは具体的な青写真が出されていない。単なる当面の利権欲しさの感情論だけである。連中の言う高速道路の整備が終わったら,次は何を柱に利権を漁るのであろうか。
鉄屋の今井氏がバカにした鉄道屋は過去の国鉄民営化で,この手の無駄な投資の結果をよく知っているので,正論を吐いているが,道路予算を押さえて赤字を出さないことに主力を置きすぎたため,国民の意識を変革させるに至っていない。
いま日本に一番必要なことは,いまの小泉総理が就任のときに言ったはずの「米百俵」の考え方ではないだろうか。かけ声だけの小泉総理は「米百俵」の本をどこへ忘れてきたのだろう。高速道路を作らずに将来の世代のために教育体制を充実させること,これが今の政権がやらねばならない最大の構造改革なのだ。不良債権をため込んだ銀行などはすべて放置して潰してしまえば済むのだ。利息もろくに付かない預金はみんなで外貨に換えて,外国の銀行に預金すればよい。大事なのは次世代を育てることだということが,「米百俵」の本に書かれている精神だと思う。
明治維新と昭和の敗戦を日本人が乗り越えられたのは,ひとえに過去の教育投資が物を言ったからだった。今回の平成大不況というか経済敗戦あるいはglobal standardという名のUSA standardによる黒船来襲に対しても,最大の武器は教育である。
いま日本では教育は十分普及している,などと言う人は本質を何も理解していない。現時点で日本で行われている教育のほとんどは,明治の開国のときの富国強兵策の補助としての,善良なる臣民と陛下の軍人を作るための教育の延長線上でしかない。真に自由に物を考えて行動できる人間を育てるようにはなっていない。今の学校は人格を総合的に磨くのに向いた組織ではない,逆に日本のそばにある半島北部の国のように,特定の方向に人間の思考を揃えるための構造になっている。日本ではごく一部を除いて,教師の質が「生意気にも人様の子供の人格を育成する。」などという水準まで達していないので,到底その任に堪えないのである。
大学などの専門教育に限らず小中高校でも,単なる知識の習得だけの教育の部分は,もはや教室での集団教育の必要はない。小中高校ではそのような知識の習得と計算などの単純な訓練については,すでに塾に大きく遅れを取っている。
学校で行う集団教育は,それに適した討論や協同作業のようなものを主体とすべきである。運動や絵画・音楽・技術家庭の作業などは午後に自宅や地域で行うべきであり,給食や軍人育成用の一斉体操・道徳などは学校が教育すべき事柄ではない。
多分道路予算の数分の一の投資ですべての家庭に光fiberを引くことができる。これを使うことにより,多くの授業内容が自宅で学習できるようになる。自宅が無理なら近所の集会所や私塾で学習すれば十分である。高速道路に振り向ける麻薬となっている予算を光fiberの充実と地域学習のNPOなどに投じることこそ,「米百俵」の精神の実現への早道である。
註:
このとき道路公団を管轄していた国土交通省の大臣は扇(芸名)さんである。
2001年,2002年版完