Dr. YIKAIの言いたい放題「日本の世相と中国関係」

2005年版 Copy Right 2005 Dr.YIKAI Kunio

「言いたい放題」の目次へもどる
2001/2002年版「日本の世相と中国関係」へ
2003年版「日本の世相と中国関係」へ
2004年版「日本の世相と中国関係」へ

2005年1月27日 人球事件
2005年2月16日 Internet TV
2005年3月2日 楽学の会
2005年3月18日 時刻は天のもの
2005年5月17日 遅すぎた郵政民営化
2005年6月11日 さもしい人々
2005年8月12日 三回忌
2005年9月15日 米中の草刈り場となる日本
2005年11月2日 流れ出た汗
2005年12月6日 自民党政変が呼ぶ軍靴の足音

2005年1月27日 人球事件

 台北に遊びに行って来た。現地のTVや夕刊紙は今月10日に起きた児童虐待事件の報道で,日本の奈良小学生誘拐殺人事件と同じような調子で大騒ぎであった。
 このふざけた事件を起したのは酔っぱらった実の父親で,自分の子供の頭を球技のballのようにおもちゃにして,脳内出血を含む大けがをさせた,というのである。現地では「(女童)人球(風波)事件」という名で報道されている。
 大騒ぎの内容は,児童虐待もさることながら,この子を受け入れた市立仁愛病院の処理にあった。仁愛病院ではこのとき緊急措置ができる病床がすべて塞がっているとして,入院処置を断り,患者は台中市まで夜中に運ばれて入院した。
 児童は意識不明で,この間の処置の遅れが原因で,脳内出血によって植物人間化しているかもしれない,とのことである。もう人としての蘇生が無理であるなら,追加の処置は不要であるという議論まで飛び出す中で,緊急医療体制に対する白い巨塔(註1)への不信感や不満が噴出したのである。
 さらに,当日は緊急病床は空いていた,という発表や,空いていたのは緊急病室の床面積であって,対応するbedや機器はなかった,という逆転発表まで出て,台湾市当局を巻き込んだ大騒動に発展した。

 台湾では現在日本以上の速度で少子化が進行しており,大陸との関係を考える上でも,人口の減少は子供の世代の非活性化につながり,NEET(Not in Employment, Education or Training )とまでは行かなくても,若者たちの仕事への情熱の低下が問題となっている。
 このような中で起ったこの事件は,二つの側面を持っている。一つは白い巨塔問題で,もう一つは子育てができない親(虐待)である。この現象は今の日本と非常によく似ているので,Asiaにおける成熟社会の必然現象であるという論調すらある。

 結局,総理大臣自ら,「人生いろいろ,会社もいろいろ,社員もいろいろ。」と嘯いて(註2),不正行為の反省のかけらも見せない国では,豊かな社会で上層階級になった人々が持つ義務感(noblesse oblige)の不足から,白い巨塔事件は起きるのである。NHKの海老澤前会長が辞任の翌日に顧問となるという無原則さ加減も,同じくnoblesse obligeの欠如が原因である。

 国家の指導層が,自己の権力に見難くくしがみ付く様を見せられて,学校で皇国史観満載の教科書で,「国を愛せ。」と教えたところで,戦前の日本や北朝鮮のように情報統制が出来ない時代に,子供たちが将来への無力感からNEET化するのは当然であると思われる。
 また虐待問題は,成熟化社会に取り残された親達のやり場のない苛立ちが,自分の子供に向けられた表れでもある。この意味では,人球事件の二つの背景は,社会の上に立っている人達の頽廃が反映していると見るのが正しいであろう。

註1
 この25年ぶりに再drama化された小説は,台湾でもTV放映されたためか,本屋には翻訳本が並んでいる。

註2
 小泉総理は今日,「人生いろいろは,多様性の表れだ。」という意味のことを,菅直人の質問に答えた。では,教育いろいろと言うべきであるが,東京都の状況を見れば判るように,教育については皇国史観一色に塗り変えようとしている。
 世界観と歴史観がない受験生と親達は,皇国史観豊かな教科書を採択することが決定されている,都立の中高一貫校の白鳳中高に13倍もの応募をした。自分の将来を一色にすることに不安を感じない国民が,いろいろ主張する割には,自分のご都合主義的な多様性以外を認めない政権党とその総理大臣を選んでいる。

2005年1月28日 追加
 26日にNHKの顧問に就任して権力の温存を図った海老澤前NHK会長は,今日夕方顧問を辞退することになった。これは決して海老澤がnoblesse obligeに目覚めたからではない。
 今回の海老澤の辞任は,受信料不払い運動を躱そうという思惑だけでなく,時の政権党の安部と中川による放送内容の検閲問題が大ごとになるのを避けるための苦肉の策であったと考えられる。

 この検閲事件については,NHKが連日夜7時台のnewsで安部の尻馬に乗って朝日新聞を嘘付き呼ばわりし続けたのが原因か,朝日新聞が握る証拠が法廷で明るみに出る可能性が高まってしまった。そこで,会長の首を予定より2ヶ月早く差し出すことで,朝日新聞側と手打ちをしたと推察される。
 しかし,ここで顧問として居坐れば,朝日新聞側も硬化することは間違いないし,不払い対策としても効果が薄いので,再度詰め腹を切らされたというのが,真相ではなかろうか。
 胆が坐っていないまま,社会の上層部に上がってしまった人間の,末路の哀れさが見て取れる。


2005年2月16日 Internet TV

 今年の旧暦の元旦は2月9日であった。中国や台湾では長いところでは2月5日の土曜日から13日の日曜日まで,春節として学校や仕事は休みになった。中国では,尖閣諸島の魚釣島の灯台が国土交通省のものになったことに抗議する組織された連中が,各所で同時多発的に日本の大使館や領事館にデモを仕掛けた(註)が,日本政府の出先機関も現地の祝日を尊重して休んでいたので,完全にスカを食わせることになった。

 日本でも戦後すぐのころは,旧正月を田舎で過ごす人々の移動があったが,入試がこの時期にあったり,学校や企業の休みがなかったりしたので,その習慣はすたれてしまった。台湾はともかく共産主義の中国でも,農村の人口が多数を占めているせいか,旧暦(中国では農暦という)での行事は健在である。
 TVも日本と同じく正月特番を組んでいた。中国や台湾のTVは電波で放映中のと同じものをinternetで同時に見ることができる。画面はQVGAであるが国土が広くて電波が届かないことへの対策でもある。日本で受信した日本のTV放送を,個人的にinternetに載せて世界中で視ることができるTVをソニーが発表しているが,中国や台湾のTV放送はその必要はない。誰でも何処でも視ることができる。わざわざ国際放送をする必要などもない。ニッポン放送を買収しようとしているLive Doorの堀江社長の言い分と同じことがすでに実現している。

 私は政府の偉い人へのヨイショを一方的に送り出すような,北朝鮮風の番組には興味がない。もっぱら中国や台湾の映画やTV dramaをinternetで楽しんだ。時代物が好きなのでTV番組表を眺めては,あちこちの局にaccessする。一般的に言ってfile形式がMedia Playerに対応している局のほうがReal Player対応の局より多いが,すべてReal Playerで見ている。理由はMedia Playerの額縁画面がダサいのと,再生時の音や画の中断がReal Playerより多いからである。
 北京の中央電視台や上海など大都市の局はaccessが集中するせいか,fileの実効転送速度が下がってしまい,再生が途切れたりして画質が悪い。中国でも日本と同じで,地方局で同じ番組を同時放映している。中央より南京,南京より常州(南京と上海の中間の古くからの都市)と捜して,ついには雲南省の地方局まで行って350kbpsの転送速度を安定に得ることができ,時代劇のdramaを堪能できた。

 日本では地上波のdigital化が行われているが,それよりも各userのbroad band回線の集積点にserverを用意してTVを放映すればよいと思う。そうすれば基幹回線のtrafficは上がらずに済む。地上波のdigital化などは交通事故の増大になるだけで,VGA画質のinternet放映が始まれば車載TV以外はあまり大きな意味を持たないと考えてもよい。視聴料を取りたいNHKもinternet放映なら確実に集金できる。
 光cableやCATV,ADSLの回線を集約している場所にserverを持たせ,このserverには当然ながらその地区からだけaccessできるようにする。地域内の小中学校の授業なども全教室liveで放映すれば,病気や不登校の児童生徒にも役立つし,親も自由に授業参観できる。Access権を持たない他地区の保護者は見る必要はないのである。もっともセクハラ好きな教師はいろいろな理屈を付けて反対すると思うが。
 大学の授業などは進んでいるところではすでにinternetで公開されているところがある。日本でもWIDE projectで有名な慶応SFCの村井教授が無料で試行している。

 今回のLive Doorによるニッポン放送株の買収について,フジTVの会長がいろいろと言っていることを聴くと,すでに終わってしまった時代の感覚で堀江社長の論理に対抗していると感じる。公共の電波を使っているとの責任感がまったくない彼らは,自分を守るときだけ政治家や役人を抱き込んで,公共性を主張している。日本における公共性とは,時の政権を批判しないことでしかない。それでは,北朝鮮や中国のTVと何処が違うのであろうか。

 日本の光cable網はすでに大都市部ではNTT,電力系,鉄道系,カラオケ系と多岐に渡っている。日本での光cable普及率は急速に上がっていて,私の主な友人はほとんどが光cableでinternetに接続している。Internet先進国と自他共に認めている韓国も光cableに乗り遅れると,アッという間に日本や中国の後塵を拝してしまうだろう。
 InternetがTV放映の主役になったとき,公共性の問題や番組作りはどうすればよいかが,Live Doorの堀江社長がぶつけた本当の課題で,ニッポン放送を手中に納めるか否かは,その過程でしかない。
 彼がニッポン放送を手中にしなくても世の中は変わるのではなかろうか。彼がspeedがすべてだと言っているのは,「いままでのままの日本のやり方では,世界の動きに間に合わない。」という認識があると思われる。

2005年3月4日 追加
 日本においてinternet TVが有料放送でしかなされていないのは,mediaとcontents制作者が同じであるからである。すなわち自分達が制作したcontentsでより多く儲けようという魂胆が酷すぎるところに問題がある。
 地上波digital放送をめぐる録画の規制問題についても,decodeした番組をパソコンのbus,HDD,display card内に流すことを2006年から禁じようと頑張っている。すなわち現在のパソコンでは地上波digital放送を見ることができないようにしようという訳である。一種のmedia鎖国である。堀江社長が心配しているのは,この鎖国状態は海外から打ち破られるのは必死であり,政権党と一体化したmedia clubが衰退することである。

 昨日,堀江社長は外人記者clubで記者会見し,「情報は買えばよい。」と言ったが,この意見には私は同意できない。Mediaが流すものは娯楽と情報と考えると,情報の中でも個人が画像・音声や文章で発信するものは,現在でもinternet上に有償・無償でたくさん流れている。ただそれら情報の真偽を見抜く力がないと,買うだけでは済まされないと思う。また,発信していない情報や発信したくない情報を掘り起こすのがmediaや記者の仕事だと考える。
 彼のこの発言は,これまで彼に同調していた非常に多くのmediaや記者の反感を買った。今後の成功のためには,若手のstuff以外に老練なご意見番が必要であろう。

2005年4月7日 追加
 光cableによる独自のinternet接続を展開している(株)USENは4月6日からパソコンTVという名前でinternet TVの無料配信の試験を開始した。収益は広告収入を充てるとのことで,通常の電波を使った民放TVと同じ構造である。なお,特記すべきことは視聴者を囲い込まずに,どのISPからでも視ることができる
 Dramaなど娯楽番組は当面既成の番組を購入して配信すると思われるが,すでにカラオケの世界でcontentsの配信に長年の経験を有しているだけに,本格的に番組作成に進出すれば,新しいkey局の誕生となり,地上波digitalにとっては脅威になる。

註: 2005年3月4日 追加
 この対日デモは,以下のような国内の不満を国外の敵を作って躱すという,恒例の手段の表れでもある。
 朝日新聞の3月4日のnewsによると,中国では福建省や河北省などにある地方政府の強引な開発projectにより,農耕地の無補償あるいは極端な低補償での強制取り上げが騒ぎになっている。
 日本のように行政訴訟や市町村幹部のrecall制度や住民投票が機能していない中国で,市や村の幹部の罷免を求める署名を集めたところ,署名簿が議会へ届く前に公安当局に没収され,署名運動のleaderは共産党幹部に対する誹謗容疑で昨年から拘束されている,とのことである。例によって反革命ということで運動を弾圧した。毛澤東は農民のために革命をしたのではなかったのかな。


2005年3月2日 楽学の会

 この表題を「ガクガクの会」と読ませようと頑張っている人達がいる。音楽でも学ぶのかと思った。それにしては語順が逆(註1)だなと思いつつ,今年の3月1日号の「あだち広報」を読んでみた。読んだのは広報の中にある「人づくりあだち区民大学塾 楽学の会」という記事である。
 東京都足立区には私の事務所があるので,区役所が発行している広報誌「あだち広報」が配られてくる。内容は,言わずと知れた成人向けの生涯教育である。この会の名は「楽しく学ぶ」というつもりで付けたのであろう。まさか音楽や楽屋の学問を拡げようという意図はないと思われるが,ここに無理に「ガクガク」というフリガナが振ってある。
 小学校水準の教育を受けたまともな人々は,楽という字は「ガク」と読むと「音楽」の意味で,「ラク」と読むと「たのしい」とか「容易に」という意味になることを知っている。あまりにも簡単なので,中学受験の試験問題にもならない水準の知識である。
 3月に開講されるこの楽学の中には,区内在住の元TV局のannouncerで言語教育家が講師となっている,「話し方おもしろ講座〜暮らしに役立つ日本語コミュニケーション〜」という講座がある。そして,この言語教育家は記事の中で,「言葉は人間が創った文化。とくに標準語や中身の充実は習わなければ身につきません。」と主張なさっている。たしかに,小学校水準の漢字の読みもできない方々が主催なさるのだから,この講座が必要な理由は私にもよく理解できた。
 区内に事務所があるので,私にも学生として聴講登録する権利があるのであるが,このフリガナを読むかぎり主催者の意識の低さに呆れてしまい,それ以上参加を検討する気はなくなった。なお,主催者の名誉のために反論を付け加えると,3月の講座には劇作家による,「楽屋から見た昭和浅草芸能史」という講座もあり,フリガナ通りの学問をするつもりも窺える。

 このように漢字教育の成果が無に帰すような方々の例は,「軽茶ーオヤジ」の項ですでに紹介した。この項のオヤジはPower Pointで作成したeLearningのcontentsに「色彩楽」と名付けてガクと読ませて悦に入っていた。多分「らくに学べる色彩学」と言いたかったのだろうが,そのままラクと読んでいいと思う。
 私は日本語の専門家ではないので,上古音から中古音への音の変化は知らないが,「学」と「楽」は現代日本語での発音が同じだからといっても,日本に伝来した当時の音は異なっていたと思われる。
 中国語の普通話では「学」は[xue2:シュエ]で,「楽」は[yue4:ユィエ]または[le4:ルー]であり,明らかに通音するわけにはいかない。「楽」の二つの意味は周代(BC1000〜BC220年頃)には同じ音であった(註2)が,日本に漢字が伝来した六朝(420〜620年頃)には発音が別れていた。なお,中国語では「学」の発音が「楽」と同じになったことはないようだ。

 ついでではあるが,事務所への最寄り駅である北千住の駅ビルにできた市場に,「千寿市場」という名前が付いている。駅の周りの小学校も千寿第何小学校となっている。たしかに江戸弁の発音で,「千住」はセンジュと読むのかもしれないが,この字は本来ジュウと読む。中国語の普通話の発音でも,「住」は[zhu4:ジュウ]で,「寿」は[shou4:ショウ]であって通音できない。実際にセンジュという音に千住を当てたのか,千寿を当てたのか不明である。ただ,日本語の音で読んでも違うので,誰でもどちらかを「無理に当てたな。」と判る範囲ではある。

 言葉の乱れは何時の世でも,どこの国でも存在する。暴走族などが,漢字の音を無理に当てていろいろなことをして遊ぶのは勝手にすればよいと思う。しかし,言葉を教えるという立場の人達が自分の茶化した気分のために,公の講座で間違った使い方をするのは残念ではある。最近のTVのannouncerが日本語を正しく読めないことは議論したくもないが,元announcerは「ガクガク」という言葉を造語して喜んでいる連中に,注意すら与えないのだろうか。

註1:
 正しい熟語の作成方法では,音楽を学ぶ意味のガクガクなら「学楽の会」とすべきである。音で読む熟語は漢語なので,動詞+目的語という順序に並べ,全部が漢語なら「学楽之会」となる。

註2:2005年5月16日追加

 現代の中国語はどの方言でも,声母と言われる頭の子音は,英語の「stop」のように二重化することはなく,一つである。
 しかし,周代かそれ以前の漢語では,楽という字は「nglak」という感じの2重子音の音だったという研究がなされている。

 春秋戦国時代に中国の範囲が拡がるに従い,漢語と同類の一音節語である他のシナチベット語やタイ語をbaseにして来た人々も,中原の発音を覚えることになった。二重子音の発音をするのが難しく感じる人々が多くなり,「ngak」と「lak」に分けた発音で意味を分割した,と考えられている。
 この音は,日本に漢字音が大量に流入した唐代までは変化しながらも維持された。この音が「ガク」と「ラク」である。
 その後,頭の子音「ng」が拗音化して「j」となった。一方北京方言では韻尾の入声音「k」は失われ,主母音が「e」に変ったのが,今の発音である。


2005年3月18日 時刻は天のもの

 朝早く起きるぐらいしか取り柄がなくなった年寄りの国会議員や地方の首長などの主張を反映して,韓国(註1)や中国でさえ廃止した夏時間(summer time)を日本では復活させようとしている。日本では夏時間は戦後すぐの1948年から4年間,進駐軍(GHQ)の意向で導入された。今回のはその時のいろいろな弊害を忘れてしまった連中が,国民を朝早くから働かせて税金を取り立てようとして考え出した愚策である。愚策の内容は4月の第一日曜日から10月の最終日曜日まで,時計の針を1時間進めるというものである。
 その言い分は,米国や欧州などでは長年採用されていて支障がない,余暇が増えるから個人消費が増える,残業しても電力消費が上がらないので省energyになる,国民が早起きになって健康によい,などである。

 政治家や役人の言うことには眉に唾を塗ってみよう。以下,かれらの言い分を検証してみる。
 米国や欧州と異なり,日本の経済構造は都市に集中している。米国などは都市以外の土地に住む住民が多い。すなわち時刻にあまり振り回されないで日常を送っている農村部の人口が多い。いまの米大統領のBushはそのような中部や南部農村の保守票を背景に再選されたことを思い起こして欲しい。
 都市が本当に活気を示すのは夜である。夜の街が早く閉じると健康にはよいと思うが,経済効果には明らかにminusである。個人消費は増えるどころか減るかもしれない。
 電力消費について言えば,昼間のpeakは原理的に変わらない。企業や学校・役所などの電力消費は多少減るかもしれないが,その分だけ自宅や街の商店・遊戯場・飲食店などの電力消費は上がってしまう。しかも大規模な建物に比べて効率が悪い。余暇が増えるということはそういうことである。
 実際に健康面を考えると,夏時間の開始日と終了日では1時間の時差が生じる訳である。これは若年・壮年者には負担にはならないが,毎日を同じ時間割で暮らしている病院・施設の高齢者には結構な負担になると思われる。まだ太陽が天空高く輝いているのに,夕食が供されるのであるから,食欲を出させるのも無理というものである。
 とすると,この愚策が役に立つのは,社会保険の赤字解消策であると看做してよい。

 実際に,1948年の日本のように一家に振り子と発条で動く柱時計が一つだけしかなくて,腕時計は一家の主が持つだけであった時代なら,時計の針を進めたり遅らせたりするのは容易であったと思われる。でも,いまはすべての車やパソコン・携帯に時計が付いているし,家中に何台時計があるかわからない。また人々は時刻で行動するようにもなっている。当然ながらこれらの時計の値を毎年二回ずつ変えるのは個人的には面倒であるし,公共的には莫大なcostがかかる。
 中国・台湾など日本と1時間の時差がある国へ行っても,針を直すのが面倒な時がある。私は中国・台湾時間用に中国製の100円の時計を毎回買って行く(註2)。現地でなくしても気にしない。

  夏時間が導入されたら,私は多分人との約束を標準時で行い,相手にもそう伝えるであろう。そうしないといちばんよく見ているパソコンの時刻と合わなくなるからである。パソコンの時刻では日本標準時=GMT(世界時)+9時間ということになっているから,パソコンで23時間しかない日や25時間ある日などの処理が出来るようにする気はない。Fileや電子mailのtime stampは日本標準時のままで使う。
 もう一つの問題は,夏時間の終了が10月の最終日曜日ということである。今年の例を取ると,10月29日までが夏時間である。このときの沖縄那覇の日の出の時刻は標準時で6時36分である。一方夏時間で始まる学校は標準時の7時頃の登校となる。従来なら1月中旬の日の出がいちばん遅い時期でも,登校42分前の7時18分には日の出が拝めたのであるが,夏時間のために登校24分前にならないと太陽が出て来ないという馬鹿げたことになる。

 改革開放政策に悪のりして,1986年から6年間ほど欧米の猿真似をした中国でさえ,夏時間は4月の第三日曜から9月の第三日曜までであった。現実的な選択ではあったが,混乱がひどく廃止の已む無きに至ったのである。
 米国,Canadaや国は違っても一つの経済圏の欧州のようにいくつもの標準時を持つところとは,Asiaの諸国は状況が異なる。北方の太陽が少ないロシアとモンゴルを除いてAsiaの国で夏時間を採用している国は現在は一つもない。四季がはっきりしていて,その変化を太陽の動きで体得している民族には夏時間は生理的にも不向きなのである。あらゆる自然に神が宿ると考えているAsiaでは,時刻は天のものであり人々が好き勝手に弄ってはならないものである。

 朝早い時刻のほうが涼しいと言うなら,各地の学校や役所は開始時刻と終了時刻を勝手に変更すればよいだけである。国がこれらの時刻を縛らずに自由にさせればよいだけである。実際に国に縛られていない企業の工場は朝8時始業のところが多い。本来8時半始業の役人は何時に出勤しているのであろうか。時差出勤の名の下に9時半頃に出て行く役所の部署もあるようだ。夏時間になると時差出勤は2時間になるのであろうか。
 役員が朝早くから始業前に朝食会を開いて,その日の案件をテキパキと処理する企業もたくさんある。現実的に対処すればよいのであって,Christ教徒やそれに類する一神教を信じる国が夏時間を使っているからと言って軽々しく同調する必要はない。

 ちょっとした人気取りでしかない夏時間を,安易に導入しようとしても無理が生じることは明らかである。
 少なくともここで挙げたようなことが起こりうることを公表して,国民投票にかけるくらいの気概で処理すべき事柄ではないかと考える。役人や議員・首長など現実を知らない連中が脳内で持った妄想どおりに世の中が回るなら,道路公団や社会保険など今起きている諸問題はないはずであることを,思い起こして欲しい。

註1:
 韓国は夏時間を日本と同じ1948年から実施した。朝鮮戦争の結果,国連軍としての米軍が多数駐留したため,1961年まで続けられたが,弊害が多く廃止になった。
 その後,ソウルOlympicの放送権のためと言われているが,Olympic前年の1987年と1988年の5月の第二日曜日から10月の第二日曜日(1988年10月2日にOlympicは終わった)まで,2年間だけ臨時に夏時間が実施された。

註2:
 時計は中国で買うより日本で買うほうが安いし,何処でも買える。


2005年5月17日 遅すぎた郵政民営化

 先月,自民党の小泉執行部は,小泉総理の印度と欧州への外遊に間に合わせるために,党総務会の了承を強引に取りつけ,衆議院へ民営化法案を提出した。
 自民党内の反対派は提出を認めただけで,賛成したわけではないという論理で対抗している。小泉と反対派のどちらの主張が通っても,もう遅すぎという感である。

 この20年ほどで郵便事業を取り巻く環境は大きく変った。まずfacsimileが家庭にまで入り込んだことにより,通常の信書による文書の送付は大幅に減った。いま送られて来る郵便のほとんどはDMと虚礼(年賀状や挨拶状)および請求書と役所などからの通知である。小包はすでに完全に宅配業者との競合下にある。
 10円未満の経費で即時に送ることができるfacsimileは,企業などの文書の郵送経費を大幅に削減した。
 次にはパソコンの普及に伴う電子mailである。これにより,文書の送付は原則無料となってしまった。私もすべての原稿を電子mailとその添付fileで処理している。私の事務所ではすでにfacsimileとそれに使っていた電話回線を廃止した。

 東京電力は電気量の検針時と同時に請求書を配送するようにしている。これにより文書での送付を必至としている請求書を送る郵便代すら大幅にcutされた。
 すなわち信書の事業は,情報の伝送ではなく,配達証明・書留めや裁判所の特別送達などの特別なものの送付にしか存在意義がなくなりつつある。DMや虚礼の信書などの配達は宅配業者で十分である。

 以上のように情報の送付に対する代替手段が普及し,情報伝達だけの信書は郵便で配送されることがなくなりつつある。郵便事業は実体がある小包に重点を置かざるを得ないのだ。
 世界を見渡すと,Douche Postはすでに1980年代に民営化され,DHLなどの既成の運送業者を傘下に収め,世界有数の運送業者になっている。これに対し,日本では日本通運やヤマト運輸も基本的には国内での輸送業者に過ぎない。まして,現郵政公社は国内だけに限定されている上に,小包の取扱量では民間業者に大きく離されている。
 いま民営化したとしても,今の規模での小包の運送事業は経済的に成り立つ状況にはないのではなかろうか。Douche Postに買収でもされないと無理だと思う。

 自民党は全国平等の名の下に,郵便事業の全国網を維持することを義務づけようと企んでいる。これは票田である全国の特定郵便局の局長の生活を保証しようという画策である。現実には,都市部の郵便局の過密配置と過疎地への無理な公平配置で,多くの特定郵便局は経営が成り立たない。
 それほど全国に窓口が多いにもかかわらず,現郵政公社は小包の取り集めにローソンを初めとしてコンビニを使おうと企んでいる。窓口の業務負担を下げて,楽をしようとでもいうのであろうか。

 ところで,民営化した場合には,公務員ではない人間が書留めや特別送達を行う場合の責任問題がある,と民営化反対派は言う。そのために,新たな利権としてそのような郵便物を取り扱う郵便認証司なる国家資格を創設するのだそうだ。
 ここで,大胆な提案をしたい。内容証明や裁判所の特別送達には警察の機構を使ったらどうであろうか。すなわちこのような郵便物の配送を警察が下請けするのだ。警察は当然ながら全国網を有している。しかも,本来の業務として,住民がいる場所をくまなく見回るのだから,すべての住民へのserviceが可能である。
 余った郵便局員を配達・送達専門の警察職員(捜査権を持たない警官)として雇用すればよいのである。

 もちろん,個人の情報が警察に知られるのは困ると言うであろう。検閲である。しかし,警察とて,開封して郵便の内容を見るわけではない。裁判所からの送達や税金の通知,相手に言った内容を公式に証明する内容証明郵便を受け取ったという事実に,どの程度のprivacyの意味があるのであろうか。役所からの郵便が送られたという事実などは,今でも警察は容易に知ることができる
 民間の書留めはそれこそ専門の配達司を認定して,宅配業者に任せればよい。それがいやなら,自分で届ければよい。
 このような大胆な改革を考えない限り,郵便事業民営化は行くも地獄,残るも地獄であろう。

2005年8月12日 追加

 去る8月8日郵政民営化の法案は参議院自民党の造反議員によって葬り去られた。これに対して小泉は衆議院解散をして,郵政民営化のみを国民に問うという戦略に出た。
 さらに,選挙戦術として,反対派の議員を党公認候補から外し,有力者を対立候補として立てることにより,有権者の関心をそれだけに向けさせようという,国民を馬鹿にしたことを考え出した。
 いま,日本が直面しているのは,もう手遅れになってしまった郵政の表側だけの民営化ではなく,小泉や戦前回顧的自民党政治による外交上の弱点である。小泉が靖国神社の参拝にこだわるあまり,韓国や台湾という対中国の切り札を失くしたまま,粘り腰の北朝鮮や大国主義丸出しの中国共産党政権とどう渡り合っていくのか,さっぱり先が見えない。

 また,国内では郵政以上の課題である年金や健康・介護保険,公共投資,教育などは,すべて国民切り捨てと戦前化指向のままどんどんと進んでいる。
 この結果,最終的に損をするのは国民であるが,小泉と自民党およびそれと結託した宗教政党は,現状さえよければいいという多数の老人票および無関心な若年者を騙しおおせ,小泉を看板にして21世紀入ってからの選挙に勝利してきた。

 このままの小泉と自民党と宗教政党の政治が続くと,どのような辛い目に逢うかは,国民各自はその時が来ないと解らないのは,先の中国侵略から敗戦に向かった歴史が証明している。
 いま,幾許かの蓄えと多少の勇気があるなら,国外に逃亡するのが,堺屋太一氏のいう平成30年を迎えるための個人としての最善の戦略であろう。


2005年6月11日 さもしい人々

 日本が誰でも安心して食べられる生活水準になったのは1960年代である。皮肉なことに,Oil shockがその後の高度成長の引き金になった。1 ballelが$2台だった原油の価格は高騰し,石油じゃぶじゃぶ時代の終焉を迎えた。
 日本がそこから立直ったのは,原油価格の上昇に対する省energy systemや技術を開発したからだ。そして,日本の高度成長が世界の人の目を見張らせた。この成長は今日の中国の成長とは異なり,自分達の技術をbaseにしていた
 そのころの日本人は,戦中戦後に喰うや喰わずの日々を送った記憶が強く,なにかと人を出し抜くさもしい人々が,都会では目立ってきていた。一方地域社会はまだ健在で,相互に気を使ったり助け合う風潮も残っていた。
 その精神が完全に崩壊したのは,団地やマンションと言われる共同住宅に住むことで助長された,隣近所の不干渉や相互理解の隔絶,戦後確立した終身雇用systemに入る切符を求める学歴偏向などによる。

 さもしい人々は金銭的に困窮している層ではなく,心が貧乏な層にかなり拡がっている。
 先日も,とある民生関係の仕事をしいてる人と話す機会があった。政府が無理に導入した介護保険制度は,以前は地方自治体の職員と民生関係の人達とで,個別に認定をして税金で賄ってきた。介護への公的補助による細かい対応は,根底から覆えってしまったという。
 要介護者の急増で,役所は今や簡単な訪問調査と書類だけで判断するしかなくなり,介護認定は,診断書を作成する医師や介護の計画を作成するケアマネージャの胸三寸で決まるという。
 とある80代初めの一人暮らしの女性は,自転車に乗ったり体育施設でsportsに興じるほど身体もしっかりしてしており,精神も問題がないにも拘らず,将来介護認定を受けるときに,要支援の認定を取っておいてほうが有利と聴き,いろいろなツテを辿って認定を獲得した。
 週2回ほど,家の中の掃除などの家事の支援を受けるために,2時間ほど支援訪問をしてもらっているそうである。Moral hazardの具体的な例である。保険制度を裏から喰いつくす,さもしい根性であると言える。
 私の母親は歩くことに困難を覚える年だが,介護保険の認定を頑として受けつけない。「さもしく見えるらいやだ。」というのである。実際に買い物などの支援は家族である私に降りかかってきている。母親と私の分の介護保険料を払っている身からすると,じつに不合理極まると思っているが,こればかりはどうしようもない。

 さもしいのは老人だけではない。若い人や中年にもさもしい人が多い。とある外国語の学習会で,次のような人物に遭遇した。
 この人物はある日,休み時間に私が先生と日本語で話している内容に激しく反論した。多分自分が以前に理解していたことと違う内容を私が言ったので,自分の古くなった知識を誇示したかったのかもしれない。今後は先生とは外国語で話すことにした。そうすれば私より実力が劣るこの人物は,聴き取れないからである。
 以前,別の人が休み時間に先生と外国語で話している会話中の単語を,この人物が聴き取れなかったときに,何回もこの別の人に単語を聞き返して,私的な会話の邪魔をしていたので,よせばよいのに,私が思わず単語の意味を教えてしまったことがあった。そのとき,この人物は私に向かって日本語で,「あなたに訊いているのではない,何某さんに訊いているのだ。」と怒鳴った。「自分も人様の会話に首を突っ込んどいて,よく言うよ。」と思ったが,そのときはたまたま虫の居所が悪かったのだろうと,聞き流した。
 しかし,今度は私と先生との私的な会話にいちゃもんを付けたのだ。私は突然悟った,この人物はさもしい人なのだ。すべての物事が自分に理解できないと面白くない。違う意見を言う人や,私のように自分以上に外国語ができる人物は気に食わないのだ。

 一気に外国語を上達しようとしても無理である。自分の水準を上げたければ,それなりの費用を支払ってどこかで特訓を受ければよい。この人物は安価に受講できる機会がある(註1)から,要介護認定でも受けるように受講する権利を確保したのであろうか。
 参加者同士の交流に意義を見いだす人,すでに習得した水準を維持するための人,映画を見るとか特定の書籍を読むとかの限定された目的の人(註2),純粋に語学が好きな人,旅先で流暢に交歓したい人,文書を書いたり仕事上の助けや就職に役立てようとする人,学習会で外国語を学ぶ人々は様々な目的がある。しかし,水準が高い目的には,それなりの代償を払わないと無理だと思う。
 さもしい人は,なにか権利を得ること自体が目的になってしまう。その先が見えないのだ。日本全体がさもしい人の集合体になりつつある。Volunteerは,さもしさとは反対の極致にある概念だ。

 人の課題解答を丸写ししたり答案を盗み見て提出する学生,赤信号で無理して進む自動車の運転手,行列に割込む人,みな介護保険の認定を上手くやる人などと同じく,さもしい人である。司馬遼太郎が嘆いていたように,日本人のさもしさが,ここの所目立つようになった。
 中国人や韓国人にも,何かと先に進んで経済成長した日本に対して,さもしい行動をしたがる人や政治家がいる。古い時代の,向こう三軒両隣の相互関係を持つことができなくなったさもしい国民は,隣国との間でも,お互いに相手が悪いと罵り合うだけの関係になってしまった。

註1:
 この学習会の費用は通常の商業的な外国語学習教室や各種学校の半額以下である。

註2:
 私の学習目的は,外国語の水準を下げないだけでなく,映画やTV dramaが理解できればよいのである。残念ながら現在の私の外国語の水準は,読むには差し支えないが,聴き取ることに大きな欠陥がある。しかし,仕事が目的ではないから,ゆるゆるとやっていく予定である。


2005年8月12日 三回忌

 今日は最愛の伴侶が逝ってから丸二年経つ。いわゆる三回忌である。
 彼女はガンを患い,多くの手術や治療の甲斐もなく,帰らぬ人となってしまった。その後,私は彼女の遺志で,ガン闘病記を書きこのsiteに上げて多くの同病者の参考に供して来た。
 私や彼女の多くの友人および見知らぬ人々がこの闘病記を読んで,まだ健康な内にガンの早期発見のための検査に赴いたようである。娘の友人の母親は,子供である友人がバイトで働いて貯めたお金でPET検査を受け,大事に至る前の大腸ガンを発見し,九死に一生を得た。その母親や高額な費用に驚いて検査に反対したその父親は一生娘の友人に頭が上がらないだろう。

 ところでいま,日本の政界は,独裁主義者小泉とそれを担いで政権を維持してうまい汁を吸おうという自民党員および宗教政党が牛耳っている。小泉は郵政民営化だけを争点に選挙を行うと明言し,国民を騙そうともくろんでいる。
 そこでは,国民の健康や生活に関する議論は吹き飛んでいて,拉致をはるかに上まわる犯罪である北朝鮮からの薬物流入と,それによる阿片戦争時並みの若者への浸透など,国内・外交に亙る多くの緊急課題の解決はなおざりにされている。

 その一つとして医療の問題がある。日本においては非常に多くの末期ガン患者は,ガン難民状態に置かれている。僅かな希望を托して,民間療法やキノコやサメの抽出液に多額の出費をしているのが現実である。ある統計によると,ガン患者が死ぬまでに支払った医療費とこれらの医療費以外の多くの希望を托した出費はほぼ等しいそうである。
 それなら,そのくらいの費用を払ってでも,終末医療を受けるという需要は山のようにあるはずである。しかし,日本では終末医療は非常に高価な民間病院か,reasonableな費用なら数ヶ月の順番待ち(待っている間に死んでしまうcaseが多い)というのが現状である。患者と家族が常時交流でき,かつ必要な緩和医療が施される施設はまったく足りない。
 自宅療養といっても,広さにそのゆとりがない都市のマンション暮らしでは大変である上,訪問看護はまだまだ足りないだけでなく体制が整っていないのが現実である。医療行政すなわち政治の問題である。郵政のお金をこのような分野に投入すればよいのだ。要は政治家や役人が自分の利益のために,郵政のお金をこっそりと使えるようにしている政治体制が問題なのである。このことは民営化とはまったく関係ないことである。

 需要が多いところにはいろいろと怪しい業者も参入して来る。介護保険の業者が自宅看護に手を出して来ているが,こと医療の問題では,医師の確保が最大の問題点である。
 現実に多くの開業医は儲けが少ない訪問医療はやりたがらない。医者は儲かるという世の中を作ってしまった政治の問題である。
 亡妻の場合も緩和病棟待ちが長いので,怪しげではあるが訪問看護を柱としている医院と契約して,自宅で看取ることにしていた。しかし,突然意識が無くなり,最後の治療を受けた東大病院に救急車で入院した。日本の医療技術の水準は高く,意識は2日後に戻り帰宅のためのリハビリさえ始めた。
 しかし,容体が急に悪化し,終末は病院の窓から湯島の自宅を眺めて迎えた。結局国立癌センターの医師が勧めた,終末の緩和医療を受けるための専門病棟への入院は,順番待ちが長すぎて実現しなかった

 三回忌を迎えて多くの方からお花や手向けの品物を頂戴した。亡妻のことを覚えていてくれた方々には感謝する。しかし,親族ほど情けないものはない。三回忌なのに彼女の母親や姉から何も言って来なくなった。当然ながらそれより遠い親族は,葬儀の時同様一言の言葉もない。
 私の会社の事務所は,亡妻の母親が借りている土地に建っている。借地の関係で建物は義母の所有になっている。しかし,建設費用は高い家賃という形で会社が10年間で支払った。もちろん銀行の返済が終わった今でも,地代や不動産税,火災保険料相当分以上の家賃は支払っている。
 ところが先日ついに,義母と義姉がこの借地を地主に返済するという名目で立ち退きを求めて来た。 会社を追い出してもっと高くで貸すか,義姉を住まわせようとでも考えたのであろう。亡妻と私でbubble期に設計・建築した思い出が残る建物ではあるが,アホと争うことすら面倒になった私は,会社の業務も亡妻の罹病発覚以来ほとんど開店休業状態なので,65歳になる月に引き払うことにした。
 義母と義姉は退去の日取り付きの約束を,誰の入れ知恵かわからないが公正証書にしたい意向であったが,とりあえず念書という形で決着を付けた。会社は登記上の住所の湯島に置き,私は,65歳になったらと亡妻と予定していた土浦の終の住処へ引退することにした。

 義母は娘の死を認めようとはせず,私に泣くことさえも禁止しようとした。それもお通夜の席と一周忌の席でである。義母は,娘が死んだのは私の責任で,誰かに怒りをぶつけて心の平安を保とうという,愚かな人になってしまった(註)。義母の財産を義姉だけに相続させようと企んだのかどうかはわからないが,義姉はその機に乗じて妹の亭主を追い出そうとでも思ったのであろうか,哀れというか親族の悲しい現実である。
 義母と義姉の行動が,小泉に喜んで,自民党に投票している人々の哀れな心根と,ふと重なった。多くの人は未来が見えないが,見ようとする努力すらしないのである。

註:2005年9月17日 追加
 今日事務所の火災保険の更新のために保険の人が訪れた。その中で,先日義母の家の火災保険を更新したときに,義母は保険の人に,「娘がこの土地に戻ってきたとき,娘は私と離婚したいと言った。あの時別れさせておけばよかった。」と言ったそうである。

 死人に口無しである。自分だけが取り残されたという義母の妄想は,どんどん膨らんで行った。誰かを悪者にしないとならない。義姉はそれをよいことに妄想を進ませる方向にしか動かない。とうとう,事務所の建物から立ち退くだけでは義姉の資金要求に不足なのか,倅の大学入学祝に渡した金を,亡妻に預けておいただけだから,と返済を迫った。
 さらに,義母が家のどこかに隠しておいた数百万の現金を私の娘が盗んだ主張し,警察を呼んだ。一週間前に義姉と二人で隠し場所にあったことを確認したときはあったという。娘の指紋は当然出ない。すると手袋をして盗ったと言い出した。刑事は笑って,手袋をすればそこの指紋が消えるので分かる,と説明した。一週間前に義姉が預かって呑んでしまった,と考えるのが順当だ。しかし,義姉は義母のボケを指摘せず,自分も被害者のように振る舞っていた。

 また亡妻が義母に掛けていた義母の簡易保険は私の娘が相続していたが,これも受取人を義姉に名義を変えるとして持ち去った。義母はしきりと金がないと主張しているが,倅から取り戻した入学祝い金やこれらの合計額の約600万円はどこに消えたのであろうか。
 義母の財産は事務所が建っていない方の土地が主である。せいぜい5,000万円位であるが,聞くところこのくらいの額の遺産がある家族がいちばん遺産で揉めるそうである。死の直前に亡妻が,義姉には決して気を許すなと子供達に言い残した言葉が,こうも早く現実化すると情けなくなるが,私が小泉の政治に対して警告していたことも,思ったより早く現実化するであろう。


2005年9月15日 米中の草刈り場となる日本

 大方の予想通り,小泉は大バクチに勝った。「小泉さんにやりかけの仕事を最後までやらせてあげなくては。」という感情論で,日本国民は自国の将来の選択の可能性を放棄したのだ。国民のこのような反応の根幹には,ここ数年来の北朝鮮や中国そして韓国までが,日本にとって嬉しくない感情論を吐いたり行動をしてきたことへの反発がある。
 米国の州知事の水準でしかない小泉や世界の政治を知らない安部など,これらAsiaの国々に対する強硬派を国民は支持したことになる。その意味では,戦略的に日本たたきをやって来た中国の目論見通りの結果となった。

 この選挙は本来小さな政府か従来の大きな政府かを選択する選挙であった。国民は自己責任の名の下に勝ち組になれなければ,将来は米国や中国の貧困層が喘いでいる状態と同じような情況になる。
 たしかに大きな政府は無駄が多かったが,それは国家が成長しているときに大きな政府を採用したから出た無駄であり,人口減少下で国家が衰退していくときに小さな政府を実行すると,ますます衰退が加速されていくというのは,歴史が証明するところである。
 実際に小泉は国家の将来に対して何も考えていないまま,郵政民営化というお題目以外の他の具体的な政策はすべて官僚への丸投げでこの4年間過ごして来た。官僚の作文でしかない100年持つという年金改革は,すでに1年で破綻することが明らかになっている。

 今さら郵政民営化など六日の菖蒲,十日の菊でしかない。やってもやらなくても何も変らない。小さな政府なら貯金限度額の引き下げこそが先決である。しかし,これは官僚の力を著しく削ぐ。今のままの民営化の先に,何も青写真は用意されていない。膨大な郵貯の資金は,無駄遣いをしなければ日米の国債を買うくらいしか使い道がない。国債で政府に入った資金は,やはりIraq派遣など無駄遣いに使われてしまう。民間の銀行でさえ日米の国債を買っているのに,民営化してもそれ以上の方策を考えられるはずがない。
 官僚と多くの日本人の不満に任せていると,余った郵貯の資金で台頭してきた中国の軍事的脅威に軍事力で対峙するという,1930年代に辿った愚かな道を再度歩むことにしかならないだろう。
 小泉が4年前に騒いだ米百俵も,官僚にやらせた結果,国立大学の民営化という予算削減策に化けてしまい,技術立国の基盤である教育の改良すら難しくなった。必要な所に資金が回っていない証拠である。優秀な教員や学生は米国に逃げ出したほうがよい。

 かつて,これと同じような狂気がWeimarer共和国を襲い,1930年代後半の大日本帝国を襲った。目前の閉塞感から,威勢がよいことを言うだけの軍人政治家が台頭し,三国同盟から第二次世界大戦に突入して行った。わが国では当時,政治家は実務を何も知らず,頭でっかちの軍人官僚が政治の裏側で国の方針を決めていた。
 明治の元勲で帝国陸軍の創設者山県有朋がきつく戒めていた支那進出についても,陸軍官僚は満州国の立役者石原莞爾すら反対した北支への軍事的侵攻を,ただの頭の中の妄想だけで押し進めた。結果,得たものは太平洋戦争と徹底した焦土と化した国土だった。
 国土建設・農水官僚が押し進める高速道路・ダム・干拓事業はすべて人口減少の未来には不要なものである。国土の荒廃を招くだけなのに,着工するのは,郵政のお金があるからではない。官僚は取り易いところから金を持って来るだけであり,郵政の金があるから使っただけだ。なければ別のところが狙われるだけだ。
 問題となっている年金も,太平洋戦争の戦費捻出のために,官僚が考え出した単なる税金だった。それを同じ官僚に管理させているから,軍事費の感覚で勝手に無駄遣いする。

 ぶち壊すべきなのは自民党ではなく,官僚機構に100%依存した小泉政治なのである。小沢一郎が主張しているのは大きな政府の改良なのだが,かれのきな臭い風貌と解りにくい行動や言葉が邪魔して,国民は何が重要なのかさっぱり理解できていない。

 「いまは,小物だけど小泉くらいしかまともなのはいないから,自民党に勝たせる。」という国民の選択は,結局官僚機構を利しただけである。官僚が支配していた金融業が世界に通用しなくなった現状を見ても,小泉が4年間自分にゴマをする官僚や議員を甘やかしてきた付けが,あと数年で回ってくるだろう。
 土豪劣神の集合体であったいままでの自民党の政治は,大きな政府の陰で汚職や情実がまかり通ったが,極端な政策は排除されて来た。いわばなれ合い政治である。その中では野党の言い分も自民党内の派閥の言い分と同じ水準で消化されてきた。これがいままでの,自民党一党支配の実体であった。
 しかし,小泉は一党ではなく個人独裁への路線を開いてしまったのある。偉大な個人が国を統治するということが幻想なのは,日本の県水準の経済力しかない北朝鮮の将軍様でも無理であることを見れば解る。優れた策略家であった毛澤東は権力者になったあと,独裁者の常である側近政治に陥り,文化大革命で中国全土を荒廃させてしまった。

 日本が米中から自立することへの選択肢は,国民が今度の選挙で小さな政府を選んだ結果,途絶えたと考えるのが正解である。EU並みの自立がだめなら,米国と完全に一体化しないままで日本がグズグズになると,現実的には世界の国々が困る。彼らの対策はすでに決まっている。日産や旧長銀は外資の物となり,日本にある会社に過ぎなくなった。世界に通用する日本の大企業は,自分から本社を米国や欧州に移せばその時から,日本でも営業している会社に過ぎなくなる。トヨタ・ホンダやソニーにとってそれはいつ起ってもおかしくはない状況だ。
 IBMがパソコン事業を中国の会社に売り渡した際の,notebook型パソコンの開発・製造拠点だった日本の工場とその従業員はどうなったか理解すべきだ。日本の会社でないということは,不要なものは切り捨てられる,ということである。
 技術力を持つが販路と資金がない中小企業は,中国が稼いだ外貨で買いあさられるだろう。 堺屋太一氏の言う平成三十年までに,日本は米国と中国の草刈り場になるのは,時間の問題だ。これから就職する人は,英語か中国語ができないとだめである。

 ところで,漫画家かわぐちかいじが連載中の劇画「太陽の黙示録」は,東南海大地震で日本の中央部が水没分断し,北側を中国が,南側を米国が支配するというありそうな想定である。哀れな日本人難民がかろうじて救いの手を差し伸べてくれた台湾で,迫害をうけながら暮らすという場面は,とても現実感がある。
 この作品は,堺屋太一の「日本沈没」の二番煎じであるが,この小説ではそのことを予測して,官僚たちがすでに豪州などに日本人が逃げこめる場所を確保していた,という信じられないくらい甘い伏線があり,日本の官僚機構がまだ有効だった時代を背景にしていることが解る。現実の将来は,かわぐちかいじの劇画が近いだろう。

 就任当初から人を小馬鹿にしたような言動をし,今回の選挙とそのすぐ後の行動で独裁者の顔を顕にした小泉は,今後も大衆受けする言動で,小さな政府という日本の将来を決定的にしてしまうであろう。これからの経緯は,Hitlerや毛澤東など多くの独裁者が国家のためという屁理屈を振り回して,如何に国民を騙し,国民の自由を奪っていったかを学習すると,よく理解できる。
 小さな政府は弱肉強食社会を生み出す。そこで負け組になった国民の面倒は見ない。しかし,負け組が逃げ込む隙間が多い米国や中国・ロシアなど大国では成り立つ構造である。日本位の規模の国は,欧州的な大きな政府を持ち,自己責任で負けた人々をも活用しなければ必ずや衰退する。これが歴史の教訓である。

 小泉に経済政策を丸投げされている竹中が描いている小さな政府が,実際にどういうものかも知らずに,一時的な熱気で自民党に投票した国民は自業自得である。小泉に反対した国民は,さっさと自分の全財産を外貨に替え,子弟は国外で仕事をさせ,外貨預金の金利と日本でもらう年金を元手に,物価が安い外国暮らしをするのが,いちばん賢い選択である。それにしても外国語が不自由であるほとんどの日本人は,竹中と官僚が展開する将来に自分を托するしかないのが不幸である。

2005年10月10日,同12月6日 誤字修正


2005年11月2日 流れ出た汗

 先月末,小泉は自分好みの好き勝手な第三次改造内閣を作った。なにかと目ざわりな福田元官房長官は,内閣や党の役職には自分の後継者と目する人物を付けると広言した対象から外した。これで,多少なりとも気を遣っていた人物はいなくなりAsia外交はまったくの暗闇になってしまった。
 郵政改革は昔から国家公務員である必要がさらさらなかった郵便局員だけの改革になり,高級官僚の利権はほとんど手つかずの形で決着が付いた。「郵政改革がすべてだ。」という小泉の妄言に騙されたアホな国民は,官僚が次に狙う大増税路線の煮え湯を飲まされる順番が回ってきた。

 内閣に並べられた小泉好みの人物は,誰も日本をどうするという独自の見解を出していない。その意味では新党大地の鈴木宗男以下の水準の小物ばかりである。実際にこのような内閣では,戦後最強の官僚主導といわれてきた小泉の4年間の官僚主導が,さらに安泰に続くものと思われる。
 女性の現職財務官僚を当選させたのだから,当然ながらこの刺客に初の女性財務大臣をやらせるのかと思ったら,選挙の論功恩賞で前の大臣が留任となり,女性の国際政治学者を刺客に使ったのだから外務大臣にするのかと思ったら,少子化・男女共同参画担当相でお茶を濁した。町村,麻生と外交オンチどもが外務大臣を勤め,小泉の強引な靖国参拝で引き起こした災いは解消すべき手がかりもない。
 まだ米国のBush大統領のほうが,政治学者を国務長官にしているのだから政治がわかっていると思われる。多分,このくの一達に対しては官僚側の抵抗が強いことを見越して,小泉の手法であったsurprise人事はできなかったのだろう。
 国民の側は,「小泉の刺客作戦に使われたくの一達は,その専門の大臣も勤まらない程度の人物だったのか,騙された。」という反応をしなければ,余程のアホと言える。結局財務も外交も官僚の立てた計画通りにしか進まない国になってしまった。安全検査を一切しない米国産の牛肉の輸入も再開されることになり,菅直人程度の厚生労働大臣すら選んでいないことがすでに判明した。

 ところで話しは違うが,汗というものは一旦身体から出るともう元に戻せない。禮記には「綸言汗の如し」という言葉が載っている。すなわち上に立つものは一旦口にしたことはもう元に戻せないから,慎重に話すべきであるという意味である。
 小泉みたいに,汗をぬぐって知らぬ顔はできないのである。小泉は「公約なんて重要ではない。」とかつて叫んだことがある。米百俵をはじめ自分の過去の言動は,都合が悪くなると平気で忘れて約束を破る。今年,海外の会合でようやく中国の胡錦濤主席と逢えたときに,「中国が靖国にこだわることは理解する。」などと言い,いざ参拝したら,「参拝しないとは言っていない。」と言葉をひるがえした。民主党の質問者を国会で小馬鹿にし,逸らかしたのと同じことを対外的にやったのだ。小泉の言動を一旦は信用した中国は,その面子を完全に潰された。

 「理解する。」や「前向きに検討する。」という言葉は,小泉に投票したアホな日本人でも「聞き置くだけで,何もしない。」という意味であることを知っている。しかし,これを英語や中国語に訳すと,まさに綸言になってしまうのである。通訳はだれもこれは「ただのrip serviceです。」とは注釈を付けないからだ。
 民主党の小沢一郎は,「中国の立場を理解はしましたが,参拝することは留保します。」とはっきりと言わねばならないと主張していた。さもないと,小泉だけでなく日本人全員が,嘘つきで食言を何とも思っていない,と取られる。なぜなら,そのようなことを4年間続けてきた小泉を気に入って,今回の衆議院議員選挙で自民党に投票したのは,他ならない多くのアホな日本人なのだから。

 対米外交でも,仕事でも日本人はこの二枚舌とも取られる言動をよくする。その場を言い繕うのである。このような政治では,国連安保理の常任理事国入りや北朝鮮の拉致事件の被害者を奪回するのに不可欠な中国の協力を得ることは不可能である。
 拉致家族の皆さんには気の毒であるが,中国が北朝鮮の命綱を握っている以上,経済制裁をしても採れもしない中国産アサリの輸入が増えるだけで,実際には効かない尻抜けの交渉事になるのは仕方がないことである。

追加:2005年12月6日
 小泉は自分の不始末をまたまた人の責任にした発言をした。大陸中国が日中韓の首脳会談の延期を発表したので,靖国神社参拝について,「それはもう中国の問題だ。それは無理だ。批判する方がおかしいと思っている」,「もう靖国は外交のカードにはならない。中韓がいくら外交カードにしようとしても無理だ。靖国以外に日中・日韓で良好な関係を重視していくべき問題はたくさんある。一つの問題で他の関係も悪くしようという考えにはならない。これは心の問題だ。」と居丈高になっている。
 これは,まさに中韓両国を徒に刺激する発言である。このような発言で日本はなにが儲かるのだ。世界的に尊敬されるのか? 中韓両国内で日本が展開しているbusinessがもっと順調になるのか? 領土問題を含む外交問題や北朝鮮の拉致事件,国連安保理の席が獲得できるのか? これらが解らない人が今回の選挙で小泉に賛成票を投じたのだ。 


2005年12月6日 自民党政変が呼ぶ軍靴の足音

 昨日,小泉を支える自民党の武部幹事長が,「日本という国は天皇中心の国であります。中心がしっかりしているということと同時に,中心をみんなで支えていく。そういう国柄だと思います」という妄言を吐いた。かつて頭が沸いている森首相が,「日本は天皇を中心とする神の国」と騒いで,あの忌むべき北朝鮮と同じような国であるという信じられない感覚を持っていることが分かった。
 天皇陛下や皇太子殿下を始めとした皇室の方々が,政治家や宮内庁の役人が自分たちの名誉欲と保身のために国民との間に溝を作ることがないようにご努力なさっていることを,完全に無視したもっとも不敬極まりない言動である。

 世界には王政を敷く多くの国がある。その中でも曲がりなりにも民主制が成り立っている国は日本と英国・北欧以外にはほとんどない。もちろん王政を採用していなくても,北朝鮮のようにその王位を三代目に相続させようと企んでいる,事実上の専制王政国家もある。さらには,一応世襲ではないが,特定の個人や集団とそれに認められた特定の政党や宗教団体の中からしか為政者になれない国は,世界中の半数以上を占めていると考えてもよい。大陸中国を始めとしてこのような国はたとえ発展していても,その国から逃げだす国民がたくさん出てくる。
 中国共産党による専制政治を敷いている大陸中国では,非常に多くの親は,たった一人の子供を何がなんでも大学にやって,できれば大学院にやるか留学させて,自由主義国の永住権を得たり帰化させることを目論んでいる。
 日本も自民党による事実上の専制体制が続いているが,現時点では法治思想と言論の自由が曲がりなりにも保証されているので,日本人をやめてまで子供を国外に流出させようと考える親はそう多くはない。
 経済が発展すれば国外に逃避する国民はいなくなるという考えもあり,現に中国共産党政府はそう考えていると推定するのが正しいだろう。しかし,現在大陸中国から逃避を考えている人間は,単なる金儲けだけが目的ではなく,すでに比較的豊かになった層に多い。精神の自由は何者にも替えがたいのだ。
 実際,私が知っている在日中の中国人の中から,かなり多くの人が日本国籍を取得している。かれらは,中国関係のbusinessで成功を納め,豊かになったにも拘らず,中国に帰って豪邸を建てようとは考えない。そう,子供の教育やいつ何時批判を受けて追放されるかわからない状態を好んでいないのだ。
 中国に住んで中国人と結婚した日本婦人でさえ,めったに中国国籍を取得しない。面倒でも毎回警察に赴いて滞在visaの更新をしている。

 森や武部が自分の考えをどう持つかは,この日本では保証されている自由である。ただ国民に強制できるだけの権力を持つ政治家や役人がそれを大声で発言することは,小泉の靖国参拝と同じく,国外からは日本人全体がそのような人間であると見なされるし,阿ることが大好きな連中は,森や武部や小泉の発言だけで先走りして国民にそのような考えを押しつけようとする。
 たとえば,すでに死んでしまった人気俳優の兄である今の東京都の知事は,国民をそのようにしたいと口憚ることなく言っている。それに対し,積極的には東京都教育委員会の委員を意に沿う人物に変えたり,役人が先回りして意に沿うような仕事をしている。この意に沿う委員は天皇陛下にその発言をたしなめられたくらい不敬極まる輩である。

 今回のことは,自民党が絶対多数を握った驕りから出たものである。武部は,「自民党が勝ったのだから,国民は当然彼の考えを支持しているあるいは支持すべきだ。」と思っているに違いない。郵政民営化に賛成票を投じると,何時の間にか皇城遥拝をすることに賛成したことになる,という小泉流のまやかしの一つである。

 今回の政変は国民が選択したのであるから,自民党やその第五列である宗教政党に投票した人たちは,戦前の暗黒の専制国家に戻ってしまう日本に子供を住み続けさせればよい。そうでない投票をした人は,英語をmasterさせて子供を素早く海外に逃げだせるように手配をするのが正しい。軍靴の足音は遠くに聞こえたときにすぐ準備をしないと,いよいよとなって誰でもわかるような状態になってからでは簡単に蹂躙されるのは歴史が証明している。

 私はどうするかって? もう余生は永くないので,日本の行く末を見つめて行くことにする。子供は? 20年以上前に日本はやがてそうなると考えて,英語と中国語を教えたが,なにせ今の日本の環境下では,そのような杞憂にはなかなか子供の頭では気がつかない。逃げ回っているうちに外国語を身に付ける最大の機会である年齢のmeritを失ってしまった
 いま教えている学生にも英語を身に付けるよう,口を酸っぱくして言っているが,アルバイトと合コンには熱心であっても,その意味を感じ取ることができない。精神の自由が減少すると人口の減少との相乗効果になり,日本の経済は急速に凋んで行くであろう。その時に経済難民として逃げ出すのでは遅いのだ。


2005年版完