日中学院校友会第19回中国旅行報告 II(4月12日,13日)
黄河中流域の自然を訪ねる旅


2015年4月10日 羽田発北京経由運城へ
4月11日 吉県へ,壺口瀑布
4月12日 河津へ,龍門村禹王廟龍門口,運城へ
4月13日 池神廟解池,永済へ,鸛鵲楼,華陰へ
4月14日 西岳華山西峰,霊宝へ,函谷関と函谷古道,三門峡へ
4月15日 三門峡ダム,澠池へ,黄河丹峡,運城へ
4月16日 運城発北京経由羽田に帰国

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4月12日 河津へ,龍門村禹王廟と龍門口見学,運城へ(運城泊り)
★ 壺口から大回りして河津に着き昼食
 この日は快晴で,朝の外気温は5℃くらいしかなかったようだった。さらに前日の晩から吹き出した強風が,朝になっても止まずに吹き続けていた。後から聴いたところでは,われわれが14日に乗る予定の華山ロープウェーは,この日は日曜日ではあったが休止したそうである。
 給食のような朝食を大勢の中国人客と争って食べた。あまりの騒ぎに気圧されて,前日分けてもらったリンゴとお茶で朝食を済ませた参加者が何人かいた。
 8時半にホテルを出発し,昨日のG22を戻った。両側にたくさんの窯洞(yáodòng)が見えている。ガイドの徐さんの説明では,窯洞は山西省の中部,陝西省中部および北部の黄土高原に広く分布していて,まだ3,000万人近くの人々が住居や貯蔵庫として利用しているそうである。
 窯洞は夏涼しく,冬は暖かいので意外と暮し易いそうではあるが,現代化された生活には適さないので,どんどんと放棄されている。しかし,窯洞の手前に新しく建てた住宅のデザインが窯洞によく似ている。
 再び火焔山をトンネルで越え,臨汾市の南側でG22からG5の南行きに移った。侯馬のインターチェンジで今度は正しくG5の西行きに入り,カタカナのコの字型に200km強を3時間かけて走り,河津で国道108号に下りた。
 昼食は金港龍湾生態園という大きな温室リゾート施設内の邀(yāo)雲の間で摂った。日曜日だったため施設内は客でごった返していた。最後に主食として,山西名物では刀削麺と双璧をなす猫耳朶(麺)が入った野菜スープが出た。
★ 龍門村で新築の大禹廟を見て,龍門口の道路橋から黄河を見る
 13時過ぎに食事を終えてバスに乗り,20分ほどで次の見学地大禹廟に着いた。
 歴史書には,禹王は黄河の治水を成し遂げ,夏を建国したと書かれている。その禹王が治水工事をした場所は,黄河が南北750kmにもおよぶ陝晋峽谷を流れ下った出口で,300mの川幅が一旦100m程度に狭まり,その後一気に数kmに拡がる龍門口だと伝えられている。
 以前から龍門口の山西,陝西両省側にこの禹王を祭った大禹王廟があった。廟は幾多の戦火に焼かれながらも再建され,治水を願う多くの人々の信仰の地となっていた。最後に,日中戦争中に廟に立て籠る国民党軍を旧日本軍が砲撃したため,廃墟となった。その後,黄河を渡るのに適したこの場所に道路や鉄道の鉄橋が架かり,廟は再建される土地を失った。
 現存する古くからある禹王廟としては,龍門口より少し下流の陝西省側の韓城市に,1301年に建てられ明代末期に再建された大禹廟があるが,黄河を渡らないと行けないのでこの旅行では割愛した。代りに黄河から少し離れた地元の龍門村に大禹廟が2012年に完成したので,先にそこを20分ほど見て禹王の業績を少し理解した。
 13時50分に龍門口に着いた。道路橋は下流に高速道路ができたので,乗用車以外の車は通ることができなくなっていた。ここは禹王が治水をした場所なので,禹門口とも呼ばれている。
 上の写真は黄河の流れに沿って右から,天然のダム湖になっている龍門口の上流,鉄橋が架かる龍門口の狭いところ(下流から上流に遡った鯉は龍になるという,登龍門の伝説の場所),左は河原がある広い下流,の順である。
 一般に峽谷から吹き出す風は強いのであるが,この日は平地も朝からの強風で,国道108号の吊橋の上に歩いて出ると,手摺りにしっかり捕まっていないと吹き飛ばされるくらいであった。
 龍門口は現在は観光地として整備されていないのでゆっくりできず,14時10分には強風に煽られるようにバスに乗り運城を目指した。
 今は鉄橋が架かっている峽谷の出口には,4千年前禹王が治水を始める前には岩山があり,黄河の流れは出口で西側に急に曲げられていたため,現在以上にダム効果があり,上流の雪解け水などで増水すると,一気にこの天然の堰堤を越えて水が溢れ出し,峽谷を形造っている呂梁山の南東側の平野である運城盆地の農地が水びたしになった,と伝えられている。
 禹王はこの峽谷の出口の山や岩を破壊して,急速な水流の増加を防いだということである。鉄器がまだ利用できず,鋳造の青銅器もやっと出はじめるかどうかの4千年前では,相当の難工事であったろうことは,想像に難くない。
 報告者が歴史の授業で神話時代における黄河の治水について習ったときには,そのような詳しい説明はなかったので,“治水したのは黄河下流域の堤防のことかな”程度の認識であった。現地を見て始めて土木工事の成果で建国できることの意味が理解できた。すなわち治水の結果,穀物(小米=粟,高粱)生産が安定し,国を興したということである。
 龍門口の上下流は流れが穏やかなので浮き橋や船で渡れる。
 さらに,前日に行った壺口も古来黄河の両岸を行き来した軍隊や交易商人の渡河場所であった。
 現地を見て分かったが,壺口は瀑布のすぐ下流は川幅が30m程度しかないので,伐った大木を渡して丸木橋を作ってでも黄河を越えることが出来たろう。
 壺口は南北朝期の北斉と北周との争いでも,重要な拠点となっていた。
 山西省を押えていた軍閥閻錫山も,対岸の延安に居を構える共産東軍に備えて,壺口に部隊を駐屯させていた。
★ 運城建国飯店に帰り,ホテルで夕食
 帰路はG5を少し東進し,新しくできた河運高速(S85)に移り,S85,S75とG5からなる三角形の一辺を走って運城建国飯店に戻った。途中たくさんのリンゴ畑があり,白い花が満開であった。
 運城で高速を降りてからバスの天井がつかえて通れない場所があるなどロスが多かったが,16時40分にはホテルに着いた。
 18時半の夕食まで時間があったので,向かい側の新華書店や街を眺めるために外出した人も多かった。
 ホテルの隣の小さな関帝廟の前の通りでは夜市が開かれるみたいで,準備をしている人がたくさんいた。
 夕食はホテルで摂った。豆腐料理などさっぱりしたものが出た。
4月13日 池神廟,解池,関帝廟見学,永済へ,鸛鵲楼見学,華陰へ(華陰泊)
★ ホテルからすぐの池神廟と塩湖(解池)を見る
 この日は前日の強風もなく,空は快晴であった。朝食後8時半にホテルを出て10分ほどで解池(二つの塩湖のうち大きい方)の畔に建つ池神廟へ入った。
 運城の街は古代から塩湖の塩を管理するためにあった。「運城非塩池不立,塩池非運城莫統。」だそうである。前年の旅行で行った開封府の包公も河東(兼陝西)轉運使司という名のここの役所で,一時そのトップである河東制置使という塩官に就いた。
 池神廟の中には諸時代の塩の管理について説明している展示があり,漢の武帝の時の懲罰では,“勝手に塩を煮た者は鎖で左足を縛り,その(煮る)器具の中に放り込む”とある。中華民国に入っても,300斤まででも塩を私すると,5年の懲役となっている。廟の庭からは塩湖が見渡せた。
 池神廟は元々最前線の塩湖管理事務所に附属した廟であったのかもしれない。解池のちょうど中央になる部分に解池を横切る道路ができていて,対岸に渡ることができる。
 この横断道路の途中でバスを止めて隙間から解池に降りた。塩は塩化マグネシュウムをかなり含んでいるのか苦みが強かった。足元は意外と柔らかくて,靴を塩だらけにした参加者もいた。
 遠方には工業用の塩を採取して,白い土手のように高く盛り上げた景色が見えた。
 解池の中央を横切る道のちょうどまん中辺りに,「中国死海運城塩湖」なるリゾート施設の看板があって,数100m先に全天候型の塩水浴や美容用に湖底の黒い硫酸ナトリウムの泥浴びをする施設がある。
 入場料は何と188元もするが,けっこう人気である。もちろん中で食事もできる。
★ 本家関帝廟は広大な敷地に建っていた,昼食は敷地内で
 10時前に解池を貫く道に別れを告げ,本家の解州関帝廟へ向かった。二つの塩湖と運城市街地を環状に取り巻く繞城高速(S75-01)に入り10分ほど西に進むと,南側を流れる黄河と北側にある塩湖を隔てている中条山の麓に大きな関羽の像が見えてきた。
 この解州の「解」という字は,通常の単語中では[jiě]と読まれているが,“解った(明白)”の意味の時と人名地名では[xiè]と読むというのが,報告者の猿智恵の限界であった。ところが,ガイドの徐さんによると地元では[hài]と読むと言う。浅学菲才の輩はここでも恥をかいた。
 じつは,高速の表示にはXieとHaiの2種類の表記があった。地元民が多いであろう運転者への標識はHaiで,観光客への標識は一般に通用しているXieになっていた。
 これには後日談があり,広東省出身の中国語の先生にこの読みの違いの話をしたところ,“そうでしょう,広東語でもこの字は[haai]と読みます”と言われた。なお,普通の意味では「解」は[gaai]と読むようである。
 日本語の“カイ”という読みは唐代の音を反映しているので,中古音が残っているのだと納得した。
 高速を下りて10時半に解州関帝廟に着いた。関帝廟に至るやや幅が広い道の両側には,店舗群が建設中であった。
 巨大な関羽像と言い,塩湖リゾート施設と言い,運城は塩業や石炭,農産物に頼った経済から,空港と高速鉄道の開通を梃子に,塩湖と関羽を柱とする観光都市への展開を模索をしていると思われる。
 ただ,塩湖も関帝廟も世界遺産にするには何か物足りない,というのは報告者の偽らざる偏見である。
 解州関帝廟は広大な敷地に南から北に向かって建物がいくつも並んでいた。横浜の関帝廟の規模は論外で,昨年訪れた洛陽の関林も,ここのほんの一部の大きさに過ぎない。
 多分,関羽が歴代の朝廷によって「侯→公→王→帝」と称号が出世するに伴って,廟の拡張を続けた所以であろう。
 一番奥にある春秋楼は門を含めて四つの建物があり,23.4mと軒高が一番高い。
 樹齢1,400年と推定されている柏(かしわ餅の葉はブナ科の「槲」の葉を使用)の樹が数株植わっていて,高さは建物の軒を越えている。
 山西省のこの一帯は,かつてこのような巨木がたくさんあったと思われる。太原の晋祠でも,さらに大規模な同じような大木の景観がみられる。明代初期ですら山西省の緑の被覆率は30%以上もあったと推定されている。
 中央の楼に登ると後園の彼方に解池の隣にある硝池が見渡せた。
 12時に御園と書かれた墻壁がある後園から廟内にある関府家宴に移動して昼食を摂った。
 先に白飯と饅頭が出た。どこでもおなじみの「番茄鶏蛋」が美味しかった。
 食事は13時前に終わり,来た道を運鳳高速(S87)の入り口まで戻った。
盛唐の詩人王之渙の五絶で有名な鸛鵲樓から黄河を望む
 中条山を左手に見て高速を1時間近く走り,永済西でS87を下りた。この街は今は寂れているが,蒙古(元)の侵攻までは長安と洛陽を結ぶ主要な交通路の要衝として栄えた。
 黄河の流れが緩い割には幅が狭いこの場所は,蒲(Pú)津渡と呼ばれ,春秋戦国時代にはすでに浮橋が架かっていた。1989年に4尊出土した,浮橋の両端を支えるための鉄牛(約30t)と呼ばれる鉄の像とその脚の鉄柱(約40t)は,唐代に作られたものである。なお,鉄牛の遺跡には寄らなかった。
 14時15分に鸛鵲(Guànquè)樓に着いた。なお,標識の「雀」は「鵲」と同音である。
 鸛鵲樓は右の絵の最上部に描かれているように,黄河の縁に南北朝の時に北周によって建てられ,黄河対岸を監視する望楼の役をしていた。蒙古の侵攻の際に防御のために浮橋と共に焼き払われた。しかし蒙古軍は壺口の下流に吊橋を架けて黄河を渡った。
 鸛鵲樓は四大名楼の内,唯一北方に位置するもので,長安にも近かったため多くの文人に愛された。楼に着いて,王之渙(huàn)の有名な詩『登鸛鵲樓』を徐さんの主唱で参加者全員で暗誦してから楼に登った。コンクリート製の鸛鵲樓はエレベータで登り,階段で下りた。各階に鸛鵲樓にまつわる展示物があった。
 楼の最上部からの展望は最高で,黄河だけでなく,中条山やはるか彼方に霞む華山らしい姿も見渡せた。
    白日依山盡,黄河入海流。
    欲窮千里目,更上一層樓。
 詩作中の王之渙の銅像も置かれており,絶好の記念写真の的であった。
 鸛鵲樓に1時間半ほどいて,16時前にふたたびS87に乗って,現在の黄河の渡河場所である鳳陵(Fènglíng)渡に向かった。橋は一般国道なので,一旦高速を出て16時半すこし前に黄河を渡った。対岸はすでに陝西省である。連霍(huò)高速(G30)に入って西進した。ここから逆向きに東へすこし行くと河南省に入る,正に晋陝豫交界である。
 黄河は写真の中央に鉄道橋があるところで,左手上から大きく曲って来て,右向きに流れている。「水」+「可」(カギの手)で「河」という字の元になったという学説の元になった,黄河の最後のカギの手の部分である。
★ 平座の温泉旅館に泊って夕食,入浴したのは一人だけ
 G30を30分ほど走り,17時に龍門口の方に向かうS202とのインターチェンジで高速を下りた。10分ほど走ってこの日の宿となる御温泉に着いた。
 客室は倚座ではなく唐式の平座で日本式の座椅子があり,ベッドは背が低い「榻(tà)」とでも言えるものであった。
 露天の温泉は別料金で169元(宿泊客は140元に割引)だったので,参加者で挑戦したのは一人だけであった。
 水着で入ることと,105℃の源泉は地下2,600mからの汲み上げなので,日本の火山帯にある温泉のような独特の匂いがせず,温水プールに入っているような気分だったという感想であった。客室への渡り廊下からは西日を浴びた華山がはっきりと見えた。
 夕食は別棟のレストランで18時半過ぎから摂ったが,この付近は太陽が標準時からかなり遅れて動くので,まだ夕日が明るく差していた。
 北方の主食はめん類なので,饅頭(具が無い,具のあるのは包子)には普通の丸い形だけではなく,店によってはいろいろと面白い形状のものが出てくる。夕食は20時前に終わって,各部屋に引きとった。

2015年4月14日へ続く