日中学院校友会第19回中国旅行報告 III(4月14日,15日,16日)
黄河中流域の自然を訪ねる旅


2015年4月10日 羽田発北京経由運城へ
4月11日 吉県へ,壺口瀑布
4月12日 河津へ,龍門村禹王廟龍門口,運城へ
4月13日 池神廟解池,永済へ,鸛鵲楼,華陰へ
4月14日 西岳華山西峰,霊宝へ,函谷関と函谷古道,三門峡へ
4月15日 三門峡ダム,澠池へ,黄河丹峡,運城へ
4月16日 運城発北京経由羽田に帰国

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4月14日 西岳華山西峰,霊宝へ,函谷関と函谷古道,三門峡天鵝湖へ(三門峡泊り)
★ 西岳華山西峰にロープウェーで登り,下山後昼食
 この日は快晴で風もほとんどなかった。空気も澄んでいて,絶好の登山日和である。
 華山のロープウェーがたいへん混雑すると言うので,朝食は7時から摂り,7時40分にはバスに乗って華山の登山口まで行った。8時過ぎに高速を下りて8時10分に駐車場に着いたが,入山券を買ってバス待ちの行列に並び,登山バスに乗って動き出すまで50分近くかかった。これが週末だったらものすごいことになるだろうと思った。
 待っている間に石に彫られた華山の説明を読んだが,自動翻訳したような怪しい日本語が書かれていた。
 華山には1,615mの北峰に登るロープウェーも以前からあるが,そちらは登れる高さも低く他の峰までは,尾根伝いにかなり歩かなくてはならないため,並んでいる人はほとんどいなかった。
 専用登山バスは国道を10分ほど西に向かい,途中から山道に入り南に向かった。九十九折の道を30分近く登り,標高900m近いロープウェーの始点の駐車場に9時40分に着いた。実際は,バスを下りた場所から2,30段の石段を五つ登ってようやくロープウェーに乗ることができる。ここですでに100m近く高度を上げる登山訓練を強いられた。 
 10時にようやくロープウェーの駅に着き,5分ほどでゴンドラに乗る順番が回って来た。
 フランス製のロープウェーのゴンドラは定員8人と書かれているが,6人乗ってもかなり狭かった。幸い自分たちの仲間だけで一つのゴンドラを占拠し,高低差約900m,全長4.2kmの,途中で一つ山越えする経路を20分余りで登った。
 山を越えた谷に中間駅があったが,客扱いはしていない。保守用や荷物の運搬用に作られたと思われる。このロープウェーは1時間に最多で1,500人運べるそうであるが,多客期には西峰に登れない人が続出するかもしれない。
 谷を見下ろしたり,遠方を見たり,途中の景色は絶景としか言いようがないものであった。ここへ足を伸ばした結果,旅費はかなり高くついたが,来た価値は十分にあったと自画自賛している。
 ロープウェーの終点に近づくと,岩はほぼ垂直に数100mも切り立っていて,ところどころに松が生えている。正に武侠小説の描写の通りの世界であった。
 黄山および雲南やヒマラヤの山々を除けば,これほど険峻な山はない。「奇險天下第一山」という評価は当っている。終点の駅は,西峰の岩に穴をあけて作られていた。
 終点から西峰の頂上まで約150mの登りである。最初は石段が組まれていたが,尾根に出てからは道の勾配が少ないので,花崗岩の道に滑り止めの溝が刻まれているだけであった。
 手摺りはあまり頑強ではなく,勢いがついた状態でぶつかると,千仭の谷にまっしぐらに落ちてしまう。ちょうど北京から運城に来た日の飛行機で読んだ新聞記事によると,万里の長城でふざけていた仏人女性が,中国人のお婆さんにぶつかって,お婆さんは転んで頭を打ち,そのまま亡くなった,という。
 参加者にも騒いでいる人には近づかないように伝えておいたが,事故がなくて一安心であった。
 10時50分ごろに石段の道から山の鞍部に着いた。ここにはウッドデッキが設けられていた。30分後にここに集合することにして,自由に山頂やその周辺を見て回ることにした。時間が少ないので,歩いて10分程度で行ける南峰へは行かないことにした。
 まずは山頂の下にある翠雲宮という廟に参り,山頂へは廟の横からチェーンを掴みながら登った。足が不自由な人や杖をついている人もたくさん登っていて廟の反対側からの回り道で山頂を目指していた。岩山は滑り易かったが,幸い晴れていたので問題はなかった。
 山頂は記念撮影をする人で満員だった。前方の塔の下には亀石があり,華山の宣伝ではここに水着の女性が腰かけている。 
 山の各峰をつなぐ狭い尾根道は石段の連続であるが,歩いている人はあまりいない。
 北側を望むと遠く中条山が見え,肉眼ではその下に黄河らしきものが見えた。
 11時半前にウッドデッキで集合写真を撮り下山した。下りのロープウェーはほとんど待たずに乗れた。
 帰りの登山バスもほとんど待たずに乗れ,観光バスの駐車場に戻り,観光バスに乗り換えた。
 13時に昼食予定の華山客棧(「客棧」はもともと中国風の宿屋の昔の呼称)に着いた。
 このホテルの大きな餐庁は1階にあり,九指食府という変わった名前であった。前夜泊った御温泉が取れなかったときは,ここに泊る予定であった。
 食事は例によって普通の丸い饅頭と白飯から始まった。
 今回の旅ではいも料理がいろいろと出た。最後の麺の後にメキシコ料理のようなものが出たが,ガイドの徐さんの配慮があったのか,あまり辣くはなかった。
 昼食が遅く朝食が早かったことと,山歩きで空腹感があったのか,参加者の食はとてもよく進み,料理の皿はあっという間に空になった。
★ 潼関の跡地を経由して函谷関に,函谷古道をすこし歩く
 13時45分には食事を摂ったホテルを後にして,昨日来たG30を東に向かった。途中,渭(Wèi)河が黄河に合流する寸前の右側の山の上に潼(Tóng)関が復元されて建っていた。本来の潼関があった場所は道路になっている。
 この場所は山西省側の中条山と陝西省側の華山に挟まれた隘路で,黄河はもちろん道路も鉄道もすべてここを通らなくては反対側に行くことができない。
 なお,潼関は多くの日本人には函(Hán)谷関ほどは知られていないが,三国志では関を守る馬超を曹操が数ヶ月の対峙の末に打ち破ったことで有名である。
 15時10分に霊宝でG30を下りて,黄土の丘の上を函谷関に向かった。15時20分に観光村の入り口に着き,電動カートで再建されたた函谷関の建物に東側から向かった。
 カートで函谷関に近づくと,大きな金色の老子の像が立っていた。言い伝えによると,老子は秦から出るときに函谷関で数日足止めされていた。そのとき「道可道,非常道。名可名,非常名。」で始まる五千字の『道徳経』を著し,大きな青い牛に跨がって関を出て東に向かったということである。
 函谷関は戦国時代に秦によって,主に東からの侵入を防ぐために建てられたが,老子や『鶏鳴狗盗』などの有名な故事は,いずれも函谷関から東に脱出する際の話である。
 15時半にカートを降り石段を登って行くと,中央に3層の楼が二つ並んで建っている関の入り口に着いた。楼の下にあるジオラマで函谷関の全景を見ると,関の両側は黄土の山で,関を抜けた西側は約15kmの函谷古道になっている。
 古道を抜けると関中の地になり西安までは平野が拡がっている。
 関を抜け西に向かって古道を2,3百m歩いた。
 古道は黄土台地に刻み込まれたV字谷の底であるが,道幅は馬車が通れる程度に広く,坂や勾配もなく平らであった。前方上部に函谷関に来る際に通った道路橋が見えた。谷の深さは30m程度であろうか。谷の入り口には八重桜が植えてあり,満開であった。
 “箱根の山は天下の険,函谷関もものならず~♪”で有名な『箱根八里』の作詞者鳥居忱は,多分この現地を歩いてはいないと思うが,明治期の人物が持つ漢籍の教養からすれば,函谷古道の実態は知っていたのかもしれない。
 古道からの帰りに函谷関の楼に登って東側を展望し,横の崖のところに当時の武器庫の遺跡が見つかったのが展示してあった。鉄の鏃が多数埋まっていた。16時半過ぎに電動カートに乗って入り口に戻った。観光バスを函谷古道の道路橋上に止めてもらって,函谷関と古道を鳥瞰した。
★ 三門峡ダム湖のリゾートホテルに泊る バイキング形式の夕食
 バスはすぐにG30に入って東進し,17時10分に三門峽西で高速を下り,三門峽の市街に入った。三門峽ダム上流に拡がるダム湖には白鳥が来て越冬する場所があるそうで,そこは天鵝(白鳥のこと)湖と名付けられ,周りは陝州公園というリゾート地になっている。
 三門峽の市街地は春秋時代に虢(Guó)国があった場所で,黄河の南北にへばり付くような平地がある。そのためか,岐阜県程度の面積で人口30万人に満たない市の中心街だけ,高層の建物がどんどんと建っている。
   17時半過ぎにホテルに着いた。ホテルはリゾート地の中にあり,天鵝湖国際大酒店という五つ星ホテルであった。
 部屋は今回の旅行では最高級で,庭の池が見える1階の部屋に泊った。池ぞいにはファミリー向けのコテッジ風のベランダ付きの部屋もあった。
 18時半から夕食にした。ホテルに来る途中の道路にかかっている横断幕でたくさん宣伝していた,一人58元というバイキング形式で,ビールやワインの外に薬酒も飲み放題であった。
4月15日 三門峡ダム,昼食後澠池の街から山中の道を丹峡へ,黄河丹峡,運城へ(運城泊)
★ 黄河に最初に作られた三門峡ダムを見る
 天鵝湖まではホテルから歩いて2,3分で,翌朝見ると,湖面が霞んでいた。湖面は黄色くなく,砂泥はダム湖の底に沈んでいるようである。12日の強風で柳の枝が折れて飛んでいて,丸い柳絮(xù)になりそこねた白い花が草地に拡がっていた。
 本来9時出発の予定であったが,前夜,バスの中で忘れ物を探した後,室内灯を消し忘れたために,電池が上がってしまい,出発が予定時刻よりも1時間近く遅れてしまった。
 黄河に最初に作られたダムは三門峽ダムで,三門峽の市街地から15kmほど山道を行ったところにある。
 途中,高校生の集団が各クラスの旗を上げてダムを目指して歩いていた。数百人はいたので,全校挙げての政治学習の行進かもしれない。
 ダムは軍事的な管理の下にあり,入門にはパスポートの提示が必要であった。今回の見学地は危険な場所も多かったので,あちらこちらでパスポートの提示を求められた。日本のお山の入山登録と同じである。
 発電所は比較的小さな規模であった。下流に道路橋と突堤および砥柱山が見えた。
 入場してダムの堰堤上を歩き,河南省から山西省の境目を一歩で越えた。
 ダムの主堰堤と放水用の副堰堤の間のエレベータで,堰堤を分ける突堤に下り,先端の岩まで行った。堰堤上の保守用起重機は1961年の太原製であった。
 ここでも黄河の水は黄色ではなく,上澄みが流れている。発電用の水門は一つしか開いてなかった。もちろん放水側は閉じたままであった。
 11時20分にダムからバスに乗ったら,向こうから先ほど歩いていた高校生集団の先頭がやっと来た。日差しが強い中,長い道のりをお疲れさまである。エレベータで鉢合わせせずに済んでよかった,と思った。
★ 昼食後澠池の街から山中の道を丹峡へ
 昼食は当初11時過ぎに摂る予定であったが,出発の遅れとダムで意外と時間がかかったために,12時前にようやく市内に戻って金玫瑰大酒店の貴賓庁と名付けられた個室の7,8番で摂った。





 今回の旅ではあちこちで出る椎茸いっぱい料理と,魚の料理が出た。
 13時にはバスに乗ってG30を東に澠(miǎn)池まで行き,13時50分に高速を下りた。ここからは彩陶文化で名高い土器の発見地仰韶(Yǎngsháo)村にも行ける。なお「澠」の字は古代斉の国にあった「澠水」の時は,「縄」と同じように[Shèng]と読む。
 道路工事でごった返している街の外れから,14時に黛眉山へ通じる道に入った。
 山の村の家々は門だけが異様に立派であった。ガイドの除さんによるとこの辺りは回族が多いということであった。唐代に長安に西域から流れこんだ人たちの子孫であろうか。
 澠池の市街地から15分ほどで,道にゲートがある山中の最後の村を通過した。以前は一般車輌はここで通行止だったそうである。


 山上の道を行くと目的地の丹峽まで13kmという標識があってすぐに入場ゲートに着いた。14時半前であった。
 建物の中に丹峽の大きなジオラマがあって,行く場所を確認できた。
 丹峽はまだ開発して日が経ってないので観光客は少なく,専用バスがたくさん並んでいた。14時40分前に専用バスに乗り換えて,再度残りの山道を走った。
開発したての観光地黄河丹峡,湖面は洛陽上流のダム湖
 15時を回ってすこしの時点で黄河のダム湖が見えてきて,15時15分にダム湖の畔に着いた。このダム湖は,洛陽の北北西40kmほどにある黄河小浪底ダムによるダム湖である。このダムは2001年暮に完成したロックフィルダムであり,貯水だけでなく土砂の管理も行っている。

 下を見るとダム湖の遊覧船が繋留されていた。今は洛陽との観光船の営業は危険が多いので暫時休止しているとのことであった。もし,船が利用できるなら,この秘境は洛陽から簡単に来ることができるので,観光客で一杯になるだろう。
 ガイドの徐さんによれば,日本人観光客は多分われわれが始めて訪れるのだろうと言うことであった。
 船の右上の細い道を行き,中央で右に曲ったところから黄河丹峽に入る。
 丹峽は名のとおり,色が赤いことから名付けられた。12億年前の海底に堆積した石英砂岩が侵食されたV字谷である。前カンブリア期の堆積なので,目に見える大きさの化石はない。
 木で出来た桟道を丹峽の奥へ歩いて行った。全部回るには4時間くらいかかるそうである。15時40分になった時点でその位置から帰って来るという条件で,各自勝手に歩いた。


 山中で気温がまだ低いためか,あるいは奥まで行かなかったためか,新緑はさほど色濃くなかったが,峽谷の赤に緑が生えてとても美しい景色になると思われた。
 洛陽から遊覧船が通うようになったら,是非もう一度来てみたい場所である。
★ 三門峡に戻り,中条山を越えて運城へ,ホテルで夕食と自己紹介
 16時前には専用バスに乗り,来た道を戻った。観光バスに乗り換えて山道を戻り,G30に入って西向きに走り,18時10分に三門峽黄河公路大橋を渡って対岸の平陸市に入った。
 河を渡ったこのあたりも三門峽市側と同じく黄土台地が深く侵食されたV字谷があり,道路はその上を橋で越え,さらに風力発電のプロペラが林立する中条山を越えて運城へ向かった。
 山を越えると夕日が赤くならずに白いまま中条山に沈むのが見えた。正に「白日依山盡」の風景である。
 黄砂が巻き上がらない程度の風が地表付近のゴミを吹き飛ばし,水蒸気が少ないと夕日は赤くならずに沈む。時刻はすでに18時40分であった。
 19時過ぎに今回の旅行で3回目の運城建国飯店に着いた。ここに3連泊できずに,荷物を連日出し入れしていただいて,参加者には申し訳ないことをした。
 19時半過ぎから夕食を摂った。今回は時間もなかったので特別料理は頼んでなかったが,除さんのご配慮で酒類を付けていただけた。
 さつま薯や紫薯に粟などの衣を付けて揚げたものが評判がよかった。
 20時20分ころ料理が7割方出たところで,全員の自己紹介と感想を述べてもらった。今回は参加人数が少なかったので,21時20分に散会し,翌日に備えて早めに就寝してもらった。
4月16日 北京首都機場経由で羽田空港へ
★ 早朝にホテルを出発,運城関公機場へ,北京へのお上り観光団に遭遇
 計画段階では北京行きの飛行機は10時に飛び立つことになっていたが,4月のダイアが発表になったら,8時に変わっていた。
 そこで,本来は三門峽の天鵝湖国際大酒店に2連泊する予定だったのを変更し,前日にがんばって運城まで移動した次第である。
 5時50分から朝食を摂り,6時半にはバスに乗って7時前に空港に着いた。同時にチェックインする別の飛行機はなかったので,順調に荷物を預け,ガイドの徐さんに別れを告げ,手荷物検査を通って7時20分には搭乗待ち合い場所に着いた。
 報告者は,手荷物に入れてある「充電宝」(携帯やカメラを充電するための補助電池)が持ち込み許可範囲内かどうか調べられた。搭乗したCA1140便(機材は737)はほぼ定時に離陸した。
 機内では軽食が出たが,あまり美味しくなかった。
 飛行機は2組ほどの地元運城の人達の観光団と一緒になった。報告者は窓側に座ったが,隣の席の年寄りの男性が,しきりと窓の外を彼のカメラで写して欲しいと頼むので,離着陸だけでなく,太行山脈の上空や石家庄の華北平原なども撮った。
 話を聴くと,初めての北京旅行で初めての飛行機だそうである。お齢は70で,運城市の農村地帯に住んでいて,連れ合いは置いて来たそうである。顔がかなり日焼けしているので多分外で仕事をする人であろう。
 4泊5日で中1日は自由時間があり,全旅行費用は1,500元とのことであった。中国の旅行は食事代は別というのも多く,これが格安なのかどうかは分からない。しかし,初日と最後の日を合せて実質丸3日半くらいで,北京の有名な観光地をすべて回るという,1970年代に日本人もやった農協観光旅行の中国版のようである。
 きつい山西訛りをようやく聴き取れるようになったら,もう首都機場に向けて着陸態勢に入っていた。
★ 昼食は各自で摂り,5時間待ちで羽田行きに乗る,羽田で流れ解散
 飛行機は9時半の定時に問題なく着陸したが,第3ターミナルのゲートまでは20分近く空港内を大回りして着いた。昨年の鄭州からの便は,バスだったので意外と早く荷物の受取り場所に着いた。
 10時に荷物を取って,12時に全日空のチェックインカウンタ前に集合ということで,各自で昼食を摂りに出かけた。通常は15:35の出発3時間前から受付けるのだが,この日は11時から受付けたので,その場にいた人は早めに出国手続きをして,出発ロビー内で待つことにした。
 15時の搭乗開始前に離団式をして,その後の行動は自由とした。全日空NH962便は,羽田には20時の予定よりも20分ほど早く着き,多くの参加者は思ったより早めに帰宅できた。
★ 終わりに
 今回の旅行は,旅行委員は言うに及ばず,日中の各旅行社共に経験が少ない場所だったので,事前の調査や連絡にたいへんお手数をかけた。日中平和観光の手塚さんおよび現地をすべて先行して回って確かめていただいた洛陽王朝旅行社の徐さんと運転手の劉さんには,心から感謝の意を表する。
 この旅行が大きな事故や健康障害もなく,とても楽しく有意義に終わったことに付いては,ご参加の皆さま,さらに旅行の企画や募集にご尽力いただいた日中学院事務局および校友会の旅行委員の方々にも感謝している。
 何よりも,一日の天候の崩れもなく,華山のロープウェーを揺らす強風も吹かなかったことは,「老天爺」がわれわれの旅行を祝福してくれたのだと解釈し,心から礼を捧げる。
© 2015/5/1
日中学院校友会旅行委員 猪飼 國夫 記

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