★ 西岳華山西峰にロープウェーで登り,下山後昼食 |
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この日は快晴で風もほとんどなかった。空気も澄んでいて,絶好の登山日和である。
華山のロープウェーがたいへん混雑すると言うので,朝食は7時から摂り,7時40分にはバスに乗って華山の登山口まで行った。8時過ぎに高速を下りて8時10分に駐車場に着いたが,入山券を買ってバス待ちの行列に並び,登山バスに乗って動き出すまで50分近くかかった。これが週末だったらものすごいことになるだろうと思った。
待っている間に石に彫られた華山の説明を読んだが,自動翻訳したような怪しい日本語が書かれていた。
華山には1,615mの北峰に登るロープウェーも以前からあるが,そちらは登れる高さも低く他の峰までは,尾根伝いにかなり歩かなくてはならないため,並んでいる人はほとんどいなかった。
専用登山バスは国道を10分ほど西に向かい,途中から山道に入り南に向かった。九十九折の道を30分近く登り,標高900m近いロープウェーの始点の駐車場に9時40分に着いた。実際は,バスを下りた場所から2,30段の石段を五つ登ってようやくロープウェーに乗ることができる。ここですでに100m近く高度を上げる登山訓練を強いられた。 |
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10時にようやくロープウェーの駅に着き,5分ほどでゴンドラに乗る順番が回って来た。
フランス製のロープウェーのゴンドラは定員8人と書かれているが,6人乗ってもかなり狭かった。幸い自分たちの仲間だけで一つのゴンドラを占拠し,高低差約900m,全長4.2kmの,途中で一つ山越えする経路を20分余りで登った。
山を越えた谷に中間駅があったが,客扱いはしていない。保守用や荷物の運搬用に作られたと思われる。このロープウェーは1時間に最多で1,500人運べるそうであるが,多客期には西峰に登れない人が続出するかもしれない。
谷を見下ろしたり,遠方を見たり,途中の景色は絶景としか言いようがないものであった。ここへ足を伸ばした結果,旅費はかなり高くついたが,来た価値は十分にあったと自画自賛している。
ロープウェーの終点に近づくと,岩はほぼ垂直に数100mも切り立っていて,ところどころに松が生えている。正に武侠小説の描写の通りの世界であった。
黄山および雲南やヒマラヤの山々を除けば,これほど険峻な山はない。「奇險天下第一山」という評価は当っている。終点の駅は,西峰の岩に穴をあけて作られていた。 |
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終点から西峰の頂上まで約150mの登りである。最初は石段が組まれていたが,尾根に出てからは道の勾配が少ないので,花崗岩の道に滑り止めの溝が刻まれているだけであった。
手摺りはあまり頑強ではなく,勢いがついた状態でぶつかると,千仭の谷にまっしぐらに落ちてしまう。ちょうど北京から運城に来た日の飛行機で読んだ新聞記事によると,万里の長城でふざけていた仏人女性が,中国人のお婆さんにぶつかって,お婆さんは転んで頭を打ち,そのまま亡くなった,という。
参加者にも騒いでいる人には近づかないように伝えておいたが,事故がなくて一安心であった。
10時50分ごろに石段の道から山の鞍部に着いた。ここにはウッドデッキが設けられていた。30分後にここに集合することにして,自由に山頂やその周辺を見て回ることにした。時間が少ないので,歩いて10分程度で行ける南峰へは行かないことにした。 |
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まずは山頂の下にある翠雲宮という廟に参り,山頂へは廟の横からチェーンを掴みながら登った。足が不自由な人や杖をついている人もたくさん登っていて廟の反対側からの回り道で山頂を目指していた。岩山は滑り易かったが,幸い晴れていたので問題はなかった。 |
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山頂は記念撮影をする人で満員だった。前方の塔の下には亀石があり,華山の宣伝ではここに水着の女性が腰かけている。 |
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山の各峰をつなぐ狭い尾根道は石段の連続であるが,歩いている人はあまりいない。
北側を望むと遠く中条山が見え,肉眼ではその下に黄河らしきものが見えた。
11時半前にウッドデッキで集合写真を撮り下山した。下りのロープウェーはほとんど待たずに乗れた。
帰りの登山バスもほとんど待たずに乗れ,観光バスの駐車場に戻り,観光バスに乗り換えた。 |
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13時に昼食予定の華山客棧(「客棧」はもともと中国風の宿屋の昔の呼称)に着いた。
このホテルの大きな餐庁は1階にあり,九指食府という変わった名前であった。前夜泊った御温泉が取れなかったときは,ここに泊る予定であった。 |
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食事は例によって普通の丸い饅頭と白飯から始まった。
今回の旅ではいも料理がいろいろと出た。最後の麺の後にメキシコ料理のようなものが出たが,ガイドの徐さんの配慮があったのか,あまり辣くはなかった。
昼食が遅く朝食が早かったことと,山歩きで空腹感があったのか,参加者の食はとてもよく進み,料理の皿はあっという間に空になった。 |
★ 潼関の跡地を経由して函谷関に,函谷古道をすこし歩く |
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13時45分には食事を摂ったホテルを後にして,昨日来たG30を東に向かった。途中,渭(Wèi)河が黄河に合流する寸前の右側の山の上に潼(Tóng)関が復元されて建っていた。本来の潼関があった場所は道路になっている。
この場所は山西省側の中条山と陝西省側の華山に挟まれた隘路で,黄河はもちろん道路も鉄道もすべてここを通らなくては反対側に行くことができない。
なお,潼関は多くの日本人には函(Hán)谷関ほどは知られていないが,三国志では関を守る馬超を曹操が数ヶ月の対峙の末に打ち破ったことで有名である。 |
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15時10分に霊宝でG30を下りて,黄土の丘の上を函谷関に向かった。15時20分に観光村の入り口に着き,電動カートで再建されたた函谷関の建物に東側から向かった。
カートで函谷関に近づくと,大きな金色の老子の像が立っていた。言い伝えによると,老子は秦から出るときに函谷関で数日足止めされていた。そのとき「道可道,非常道。名可名,非常名。」で始まる五千字の『道徳経』を著し,大きな青い牛に跨がって関を出て東に向かったということである。
函谷関は戦国時代に秦によって,主に東からの侵入を防ぐために建てられたが,老子や『鶏鳴狗盗』などの有名な故事は,いずれも函谷関から東に脱出する際の話である。 |
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15時半にカートを降り石段を登って行くと,中央に3層の楼が二つ並んで建っている関の入り口に着いた。楼の下にあるジオラマで函谷関の全景を見ると,関の両側は黄土の山で,関を抜けた西側は約15kmの函谷古道になっている。
古道を抜けると関中の地になり西安までは平野が拡がっている。
関を抜け西に向かって古道を2,3百m歩いた。
古道は黄土台地に刻み込まれたV字谷の底であるが,道幅は馬車が通れる程度に広く,坂や勾配もなく平らであった。前方上部に函谷関に来る際に通った道路橋が見えた。谷の深さは30m程度であろうか。谷の入り口には八重桜が植えてあり,満開であった。
“箱根の山は天下の険,函谷関もものならず~♪”で有名な『箱根八里』の作詞者鳥居忱は,多分この現地を歩いてはいないと思うが,明治期の人物が持つ漢籍の教養からすれば,函谷古道の実態は知っていたのかもしれない。
古道からの帰りに函谷関の楼に登って東側を展望し,横の崖のところに当時の武器庫の遺跡が見つかったのが展示してあった。鉄の鏃が多数埋まっていた。16時半過ぎに電動カートに乗って入り口に戻った。観光バスを函谷古道の道路橋上に止めてもらって,函谷関と古道を鳥瞰した。 |
★ 三門峡ダム湖のリゾートホテルに泊る バイキング形式の夕食 |
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バスはすぐにG30に入って東進し,17時10分に三門峽西で高速を下り,三門峽の市街に入った。三門峽ダム上流に拡がるダム湖には白鳥が来て越冬する場所があるそうで,そこは天鵝(白鳥のこと)湖と名付けられ,周りは陝州公園というリゾート地になっている。
三門峽の市街地は春秋時代に虢(Guó)国があった場所で,黄河の南北にへばり付くような平地がある。そのためか,岐阜県程度の面積で人口30万人に満たない市の中心街だけ,高層の建物がどんどんと建っている。
17時半過ぎにホテルに着いた。ホテルはリゾート地の中にあり,天鵝湖国際大酒店という五つ星ホテルであった。
部屋は今回の旅行では最高級で,庭の池が見える1階の部屋に泊った。池ぞいにはファミリー向けのコテッジ風のベランダ付きの部屋もあった。 |
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18時半から夕食にした。ホテルに来る途中の道路にかかっている横断幕でたくさん宣伝していた,一人58元というバイキング形式で,ビールやワインの外に薬酒も飲み放題であった。 |