日中学院校友会第20回中国旅行報告 I(3月24日,25日)
早春に浙江省の水辺と美食を訪ねる旅



2016年3月24日 成田発杭州着後杭州市拱墅区へ,拱宸橋・橋西歴史街区・大運河博物館
     嘉興市海寧市へ
3月25日 海寧市塩官鎮へ,金庸書院宰相府第風情街海嘯,紹興市越城区へ,黄酒博物館
     柯橋区へ,古縴道,越城区へ,倉橋直街
3月26日 蘭亭沈園八字橋,杭州市淳安県へ,
3月27日 千島湖遊覧船,杭州市西湖区へ,西湖蘇堤
3月28日 西渓湿地河坊街自由行動
3月29日 西湖自由行動,杭州発成田に帰国

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3月24日 成田発杭州着後杭州市拱墅区へ,拱宸橋・橋西歴史街区・大運河博物館,嘉興市海寧市へ(海寧泊)
★ 成田空港から杭州蕭山機場へ,杭州市の拱墅区へ移動
 出発当日は,旅行参加者が成田空港第1ターミナル出発ロビーに到着しだいに順次荷物を預け,朝8時過ぎに参加者25名全員(引率者を含む)の集合を確認後,出国手続きをした。
 出国手続き後,添乗員の手塚さんと引率者でもある校友会旅行委員の猪飼(以下,報告者と記す)が簡単な挨拶をし,搭乗まで自由時間とした。
 成田空港は小雨が降っていたが,多くの参加者が成田への乗り物に乗った時は雨はほとんど降ってなかったようであったが,肌寒かった。
 飛行機は10:00発の全日空NH929便で,ほぼ定刻に出発した。 機材は中央に通路が1本しかない120座席の小型機B737-700であったが,ほぼ満席であった。 各座席にはTVが無かった。
 飛行機は定刻より15分ほど早い,現地時間(以下同じ)の12時35分に杭州蕭山国際機場の駐機場に着いた。
 同時刻頃に着いた飛行機はなかったので,すぐに入国手続きが終わり,最近追加された入国時の手荷物検査も,日本人団体ということなのか省いてもらって,13時過ぎには出迎えの中国国旅(浙江)国際旅行社有限公司の日本部副部長でスルーガイドの金雨情氏の出迎えを受けた。
 バスへは徒歩で移動し,坦途客運の定員51人の大型観光バスに乗り込んだ。 帰国時まで移動はすべてこのバスを利用した。 バスの運転手は李さんと言い,運転はとても巧みであった。 バスは13時15分に出発した。 空港高速のS4からS2に入り,銭塘江を渡ってから高速道路を出て,杭州市街の北側から拱宸[Gǒngchén]橋の橋西歴史街区へと西に向かった。
 最初の目的地に行く途中,ガイドの金さんから自己紹介があった。 日本語はかなり達者であった。
 出身は,浙江省中部海岸寄りの台州だそうで,捲舌音の発音が苦手なことと,母音anがenに近い発音になることで,聴き取りにくい参加者もいたようである。
 かれ自身は大学に行くときに出身成分(「成分」は中国共産党が分類した国民の階級分けで,かれは中農:小規模自作農)が悪かったけど,成績がよかったので何とか大学に入り,都市戸籍を得たそうである。
 なお,かれの「金」という姓は朝鮮族など北方民族由来ではなく,五代十国の頃に浙江省にあった呉越の王が銭姓だったため,当地の劉氏が「金」に改姓したのだとの説明があったが,現代の日本人にはなかなか理解できない理屈であった。
★ 拱宸橋と橋西歴史街区および大運河博物館
 バスは14時5分に京杭大運河博物館の駐車場に着き,先ず明代末期(1631年)に建設が始まったという拱宸橋を西側(写真の左手)に渡った。
 この橋はすべて石材で作られた3門のアーチ橋で,中央部は大型の船が通せるように高くなっていて,運河は未だに石土などの重量物運送に使われている。
 大運河自体は銭塘江を越えてさらに枝分かれして,紹興市を通って最終的には寧波市まで通じているが,京杭大運河としてはここが終点だったそうだ。 橋の西側は,清末までは杭州に出入りする物資の集積場であった。
 倉庫は隣との間は人一人がやっと通れるくらい,びっしりと建っていた。 もちろん物資や商品の倉庫だけではなく,上の写真の薬屋など商店もあり,それらに出入りする商人や船関係の人間が宿泊したり,そこで商売したり働く人が生活したりする場所でもあったようだ。
 14時50分ごろまで自由に古い街を散策し,橋を東に戻って15時に大運河博物館に入った。
 館内には,清末の頃にこの一帯が繁昌していた様を描いた右の写真の絵が掲げてあった。 倉庫や行き交う船の外に種々の商店や飲食店・宿屋と大勢の人が歩いている状況が読み取れる。
 15時50分ごろまで大運河の歴史や現状を解説した展示物をゆっくりと見た。
 展示によれば,現在の全長1,794kmの京杭大運河の水面は,北京付近の海抜40m程度から,天津で海河を横切る際は10m程度まで下がり,黄河を越えるときには再び40mまで持ち上がり,長江の北岸の揚州と南岸の鎮江では5~10m,江南に入ると海抜5m未満と下がっている。
 閘門式でない運河であるから,当然ながら河として勾配に応じた流れがある。 それに逆らって大きな船を動かすには,帆あるいはかつての大坂淀川の三十石船のように曳き船が必要であったと思われる。
★ 嘉興市の海寧市へ移動,ホテルにチェックイン後,蘭桂坊で夕食
 16時少し前に,博物館の駐車場で再びバスに乗り,海寧市を目指して東に向かった。 飛行機での昼食から時間が経ったためか,空腹を感じた参加者もいた。
 先ず北へ向かって杭州繞城(環状)高速に乗り,S16を経由してG92を行った。 この辺の高速道路は比較的空いていた。
 17時に海寧南から高速を出て一般道を北上した。 道路沿いには革製品の市場ビルが林立していた。 中国最大級の革製品取引市場だそうである。
 17時半に市中心部北側にある海寧駅の駅構内の広場に建つ凱元国際酒店に到着した。 海寧の女性現地ガイドの毛さんが出迎えてくれた。
 顔が平たくて丸くとても背が高い方だったが,北方出身ではなく海寧の人らしい。 各自部屋に入り30分ほど身の回りを整理した。
 各ベッドの上には,当地ならではの革製のキーホルダが,宿泊者への贈り物として置かれてあった。
 18時にホテルのロビーに集合し,再びバスに乗って,ホテルから4kmほど南にある蘭桂坊時尚餐庁に18時20分過ぎに着いた。 夕食を摂った部屋は310-315号室で,料理は3卓分用意されていた。 これ以後の食事も基本的に,3卓に添乗員を含めて9,9,8人と座った。 蘭桂坊は中国各地や香港および日本にもある。
 ここでの食事が今回の旅行で最初の浙江料理であったが,お腹も空いていたことも幸いしたのか,概ね好評であった。 滞在中,この店だけは食事のメニューが置いてあった。
 揚げた魚は「大黄魚」で,日本名はキグチである。 日本では練り物に使われるが,中国ではとても好まれる白身の海魚である。 ビールは「雪花」というブランドで,最近,中国で流行りのアルコール度2.5%のものであった。
 ちなみに今回の旅行では,想定していた採算ラインをかなり越える参加者があったので,各食事時に出す基本的な飲みものの代金は,旅行中の総額を決めておいて,資金的ゆとりが出た分から支払うことにした。 これによって,他の通常のツアーのような,食事の際の飲み物代を毎回集金するという煩わしさを排除することが出来た。
 19時半に最後の料理が出て,19時50分にバスに乗り,20時過ぎにホテルに戻って,長旅の疲れを癒した。 ホテルを出た右手すぐに食品を売る店があったので,ホテルの部屋で不足のアルコール分の乾杯をした参加者もいたと思われる。 ちなみにこの店では330mlの青島ビール(アルコール度4.3%)が5.5元であった。
3月25日 海寧市塩官鎮へ,金庸書院宰相府第風情街海嘯見物,紹興市越城区へ,
黄酒博物館,柯橋区へ,古縴道,越城区へ,倉橋直街(紹興泊)
★ 海寧市塩官鎮の塩官景区へ移動し,入場券を買い金庸書院を観る
 ホテルが駅に面していたので,一晩中列車が行き交う音がしていたが,前日の朝早く起きて成田へ行ったためか,よい子守り歌になった。
 この鉄道は,上海南駅から杭州(城)駅あるいは杭州東駅を結ぶ在来幹線の「滬[Hù]杭鉄路」なので,旅客列車以外に貨物列車も数多く走っていた。 海寧駅を通過する列車も多い。 列車では上海南駅から1時間10分~2時間半,杭州城駅からは30分~45分程度かかる。 個人やグループ旅行でこの地を訪れるなら,鉄道を利用するのも一法であろう。 虹橋駅からの高速鉄道は,海寧駅から30km近く西にある塩官鎮に近い海寧西駅に乗入れている。
 各自で朝食後,8時半にはチェックアウトしてバスに荷物を積み込んだ。 8時50分にバス乗り込んで革製品の市場ビル街を南に抜け,塩官鎮の塩官景区に9時半過ぎに着いた。 写真が逆光で見難いが,海嘯の予告時刻が13:20と表示されていた。 ここで入場券を買った。
 海寧は杭州湾の干満の差が大きなことを利用した海塩の管理地でもあり,2015年春の旅行で行った運城と同じく,古来「塩官」が置かれた。 海寧城は今の塩官鎮に置かれ,唐代以降の一時期には全中国の三大繁栄県とさえ言われ,明清代には国内外からの商船が集まり,貨物の集散地となった。
 広大な塩官景区の南側にある金庸書院まで2kmちょっとをバスで移動し,9時50分から1時間ほど見学した。 海寧は香港在住の武侠小説作家の金庸(本名:査[Zhā]良鏞[yōng])の生れ故郷である。
 金庸書院は,金庸を記念して2010年に建てられた。 中に入るとかれの作品の見せ場をレリーフにした壁があり,かれの書いた書籍が展示されている。 書院は非常に凝っていて,木造建物の彫刻から庭の太湖石や黄色に青筋が入った竹(金鑲[xiāng]玉竹),敷石に至るまで安っぽくなく,きっちりとお金をかけた本来の江南風のものである。
★ 切符売場に戻り,宰相府第風情街を買物をしながら乾隆酒楼へ
 11時前には入場券売り場の前に戻り,30分かけて清代の雰囲気が残る宰相府第風情街を散策しながら昼食を摂る乾[Qiān]隆酒楼へ向かった。 風情街は中央に水路があり,柳の新芽がとても綺麗であった。
 海寧や浙江省の伝統的な物産を売る店が多く,旅行参加者たちはそれぞれ好みの物を買っていた。 真綿の布団を作っている店や,当地の有名料理「海寧罐肉」を売る店もあった。 杭州料理で有名な「東坡肉」は,蘇軾が当地に来た折に食べた「燜[mèn]罐酥肉」(海寧罐肉の古い形)の作り方を覚えて蘇堤の工事のときに,労働者に食べさせたため広まったという。
 金庸ファンの報告者個人としては,明清代に合計32人の進士を輩出した陳家の陳閣老故居や海神廟,海寧州城の宣徳門や春煕門の城楼も観たかったが,海嘯を観る前の余裕時間での見学であったから割愛した。 なお,ガイドの金さんも学生時代徹夜で金庸の武侠小説を読みふけったファンだそうである。
 ちなみに,進士は3年に一度実施される科挙の最上位試験の合格者で,多くは国政の重鎮となった,2014年に訪れた開封の包青天も進士である。
 海嘯の時間にはまだ余裕があったので,乾隆酒楼で早めの昼食を摂った。 この店では風情街で見た当地名物の海寧罐肉が出た。 茶碗蒸しの大きいようなのは,豆腐が主体であった。
 昼食を約1時間で終えて,またバスに少し乗って観潮公園に着き,12時45分にコンクリート製の牌坊(入り口の門)から河岸へ入った。 堤防の内側の河寄りの手摺りのところで集合写真を撮った後,自由に潮の到来を待った。
 13時20分ころに,アッという間に上げ潮は目の前を通過した。 潮目の向こう側に見える船は,上げ潮で目を回した魚を捕る漁師の船だそうである。
 潮そのものは,旧暦8月18日の約2.5mと比べるべくもなかったが,潮の音はかなり大きく身体に響いた。 海嘯とはよくぞ名付けたと思われた。
 なお,この日の潮は約1.2mだったそうである。
 清の第6代皇帝の乾隆帝は6回も江南に来訪し(六巡南下),内4回は海寧に寄って陳家の安瀾[lán]園に逗留したという。 多分,海嘯も見たと思われる。 食事をした乾隆酒楼は当然ながらこの故事から付けた名称だろう。
 乾隆帝の時代は,第4代康煕帝の時代に三藩もなくなり台湾問題も解決した後,清の国力が一番上がった時で,2011~2012年に放映されて大人気になった連続TVドラマ「甄嬛[Zhēnhuán]傳」(日本名:宮廷の諍い女)の雍正帝の次の時代であるが,南巡は陳氏などの漢族の有力者を懐柔する目的もあったのかもしれない。
 ↑ 写真をクリックすると動画で見られる。なお,動画は添乗員の手塚さんが撮ったものである。
★ 河底トンネルをくぐって杭州市蕭山区経由で紹興市の黄酒博物館へ
 潮が行き過ぎた後バスに乗り,13時35分に塩官鎮を出発した。
 出発してすぐの北にある塩官の入り口からG92に乗って西に向かい,すぐに南向きのS9に移って,銭塘江を4.5kmの河底トンネルで越え,13時45分に杭州市蕭山区の田園地帯に出た。
 近郊農業で稼いだ農家は,競って4階建ての住居を新築している。 中国の習慣として男の子すべてに住居を用意するのは,親の役目であるそうだ。 もちろん高級車も必要で,さもないと如何に儲かっていても,農村には結婚相手が来ないそうである。
 バスは14時10分に紹興の出口を出て,紹興市内の一般道を30分ほど走って14時40分に越城区にある中国黄酒博物館に到着した。 来館者はほとんどいなかったので,ゆっくり見て回れた。
 2007年開館の博物館では,伝統的な方法で紹興酒を作っていて,「百年辛亥」と書かれた甕が保存されていた。
 以前は製造工程も直接見ることが出来たそうだが,今は図示による説明が主である。 日本酒のように麹での糖化と糖を酵母でアルコール醗酵させる工程を同時進行させる醸造法とは異なり,中国の黄酒はまず糯米(もちごめ)を糖化させ,それから酵母を効かせてお酒にする。
 雑菌の繁殖を防ぐために糖化の前に乳酸醗酵もさせるので,酸味が残る。 出来た黄酒は味がまろやかになるまで葡萄酒のように,長期間貯蔵して飲むとよい。 老酒である。 娘が生れたときに醸し,その娘が嫁ぐときに飲むという「女児紅」などが有名である。
 伝統的な製法で作ったできたての「甜酒釀[niàng]」を試飲したが,当然ながらまるで味醂のように甘かった。
 福建旅行や広東旅行の時に飲んだ甘い「客家娘酒」も同じような工程で作る。 日本酒も江戸時代後期に今の製法になるまでは甘かったそうである。
 入場券に付いていた無料試飲券で「加飯酒」を飲んだが,こちらはおなじみの味であった。 ちなみに砂糖や「話梅」を入れなくても十分美味しかった。
 ペットに入った「甜酒釀」を買ってホテルで水割りにして飲んでみたが,意外と美味しかった。 これを旅行鞄に入れて日本に持ち帰った参加者もいた。
★ 渋滞する工事中の104号国道を行き,古縴道へ
 15時45分ごろ,紹興酒の酔いが回らない内に黄酒博物館を出発し,北西16kmほどのところにある古縴[qiàn]道を目指した。 経路の大運河沿いの104号国道は,拡幅立体工事中で非常に混雑していた。
 45分ほどかかって目的地に着いたが,駐車場がなく,ガイドの金さんが道路工事の人と交渉して,工事事務所の駐車場にバスを止め,工事現場を抜けて国道の北側に沿う大運河に出た。
 古縴道は運河沿いに敷かれた石畳の道で,船曳き人足の足場である。
 17時まで30分ほど橋を渡ったり石畳の道を歩いてのどかな江南の水辺を自由散策した。
 昔の役人やお金持ちはここで船を牽かせて,美人を侍らせ,酒食音曲詩作に興じて優雅に時を過したのであろう。 すぐ横を走る国道や鉄道との対比が時代の隔たりを感じさせた。
★ 再び104号国道を越城区に戻り,咸亨酒店で夕食を摂る
 17時にバスに乗り,渋滞する104号国道を市内へ戻った。
 18時過ぎに,魯迅の短編小説集『呐喊』に収録されている『孔乙己』で有名な居酒屋の咸亨酒店に着いた。
 予定より多少遅れたので,店からガイドの金さんに到着時間の確認の電話が何回もあった。
 この店は元々居酒屋だったので,店内にメニューと料理の載った皿を客がセルフサービスで受け取る窓口があった。 そばには,小説の通りに「三月六日 孔乙己 欠十九錢」という札も用意されて下がっていた。
 店内はほぼ満席で,四角い中国伝統の小さなテーブルに8人掛けで座った。 料理は置くゆとりがなく,あとの方で出た名物の「炸臭豆腐」などは置く場所がなく,所狭しと並んだ皿の上に積むことになった。
 紹興名物の「醉蝦」は,生ものの衛生管理上の理由から,店で供することができなくなったそうである。 残念ではあったが,調理した蝦で代用となった。
 参加者の中の一人が,寧波で仕事をしている友人に,紹興に来ていることを伝えたので,かれは寧波から車で店まで駆けつけて来て,参加者すべてのテーブルに持参の10年ものの紹興酒を振る舞ってくれた。 流石,中国人である。 友人に対してはとても義理堅い。
 差入れの紹興酒は,店で頼んだ最上のものよりもさらに美味であった。 この参加者とご友人に感謝する。 なお,ビールは2.5度の雪花であったので,消費はあまり進まなかった。
★ 紹興飯店へチェックインして,夜の倉橋直街を散策
 19時半には食事を終え,参加者の友人を見送って40分にバスに乗った。 魯迅記念館のそばにあった咸亨酒店から西北側にある,府山公園の北側の紹興飯店まで10分くらいであった。
 途中,清末の女性革命家秋瑾[Jǐn]が処刑された場所(道路中央)に建つ碑があった。 秋瑾は日本留学経験を持ち,反清光復の蜂起に失敗し,1907年清軍によって碑が建つところで処刑された。
 元々政府の招待所であったこのホテルは,低層階の建物からなる政府高官やお金持ちの別邸のようであった。
 19時50分にはチェックインして,希望者は20時半に再び集合し,すぐそばにある老街「倉橋直街」へ揃って出かけた。
 この老街は昼間も風情があるが,夜の散策もとてもよい。 正に蘇軾の『春夜』にある「春宵一刻値千金,花有清香月有陰」の世界であった。
 水路と橋に面した左の写真の酒楼は,昔は夜もさぞ華やかなだったと思われる。 横の道に入ると,21時近くにもかかわらず,開いている店が多く,食品を求める地元の人もいた。 参加者達は,あちこちの店に寄っていたが,21時過ぎに再集合してホテルに戻った。
2016年3月26日へ続く