Dr. YIKAI の言いたい放題「技術教育」

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2001年12月13日 大学の授業時間の怪
2001年12月31日 学校と実社会との乖離
2002年1月5日 大学院への進学
2002年1月31日 大学でのwork sharing
2002年2月26日 若者層の失業
2002年9月9日 教育改革などがやれるのは一部のまともな大学だけ
2002年10月3日 お上意識丸だし
2002年12月21日 お役人の教育に対する感覚

2001年12月13日 大学の授業時間の怪

 今年もそろそろ年末になり大学の後期の授業は終わりに近づいた。国立大学の入試は2月終わり頃なので,年が明けても授業はまだあるが,私が手伝っているような私学は早いところでは2月早々から入試を行う。したがって年が明けてからは正規の講義の日程は組まれていないのが普通である。大学での正規の単位は,50分単位の授業を30回分受講することで,講義を主体とする科目は2単位となることになっていた。
 それが二つの授業時間をひとまとめにする,いわゆる100分授業で15回となっていたのだが,いつの間にか50分は45分に短縮され,90分授業になってしまった。回数については,補講と定期試験も加えて15回という私学がほとんどである。すなわち,国民の祝日や学校の記念日・大学祭などで授業が潰れなかったとしても,13回しか授業時間が確保されていない。これをきちっとやったとしてもわずか19.5時間の授業時間しかない。
 この時間内で最新のdigital(論理)技術を教授することはどう見ても不可能である。幸い私が今手伝っている大学では,私が教えている授業の先行科目として「ディジタルシステム I・II」と4単位の講義が行われている。その後にこのsiteでも講義内容がある程度わかるように,私がHDLによるdigital systemの構築法について課題の提出を課しながら講義している。
 このような体勢を取っていても,必修の「ディジタルシステム I」から最後の「情報回路 II」まですべての単位を取得できる学生は毎年10%程度しかいない。しかもそのすべてにAの成績をとる学生は1人いれば上等である。この分野の企業側で欲しい人材は,ほぼこの一人だけである,と考えられる。
 ところで,文科系の学科ではこのような授業回数すら簡単に自然休講になって減少することが多い。さらに,教師が15分や20分の遅刻したり,10分程度の早上がりをするのは当たり前のところが多いと聞く。私もこのような文科系の大学に子供を入れている。親としては授業料を返せと言いたくなる。酷い先生では,半年の実質授業時間が10時間程度ということもあるそうだ。
 「学生が遅刻するから始まる時間を遅くする。」という言い分があるが,「遅刻する学生は切り捨てても,自分はきっちりと仕事をせい。」と言いたい。授業の内容が薄いか授業が下手だから,学生が遅刻したり携帯電話でmailを送ったり,私語や他科目の内職に精を出すのである。


2001年12月31日 学校と実社会との乖離

 昔から言われていることだが,学校での教育と実社会との乖離の溝はこの一年もほとんど埋まらなかった。法科大学院(いわゆるLaw School)構想も,法律家としての実務面(司法試験での実際)と大学の法学教育のずれが生んだ解決策である。学校間でも教育のずれは存在している。大学の入試と高校教育がずれているために多くの塾や予備校が林立している。
 技術の世界ではそれが顕著である。私が得意とするdigital systemや論理回路の分野などは,多くの学校では誰でも教えられる簡単な教科という認識である。では,なぜそれを習ったはずの卒業生たちが入社早々からすぐIC回路の設計ができないのだろうか? 先生方の反論は,
 「学校では物事の法則や理屈を教えるのであって,特定のものに対するimplementation技法は教える必要はない。」
ということである。
 一見まともな理屈であるが,たとえば分数の計算などは果たして本当に誰でも教えられる簡単な教科であろうか? 学校の先生方には簡単な教科をナメている人がいる。このような人は簡単な教科ほど教えることがむつかしい,という事実を知らずにただ機械的に授業をしている。
 どのような教科でも,法則や理論を並べ立てただけで授業内容が理解ができるなら,教師は不要である。かなりよくできた教科書でも,それを使ってうまく教える教師がいないと,内容を独習することはかなり困難である。そのような授業の際にもっとも必要なのは,卑近な実例に法則や理論を適用して具体的なimageを受講生に持たせることである。また自分で法則を発見させたり,具体的な事柄に応用させることで,その教科が必要としている知識や方法論を定着させる努力をするのが教師である。
 大学での授業の内容がまちまちで,企業に入社してから再教育を必要としているという産業界の主張と,米国を中心として大学の絶対評価がいわゆるglobal standardとして来襲するのを怖れて,Jabeeなる工学系大学の学科認定制度が発足しようとしている。
 この制度では,米国のやりかたに対抗できないのは明らかであるのに,なぜこのような中途半端な制度が作られるのであろうか? それは制度を決めるのに大学の先生が関っているからである。すなわち生産者が自分の商品の価格を決めているやり方と同じである。
 某有力大学の情報系の学科がJabeeの基準を満たさなかった,ある私大の情報系の学科ではJabeeに提出する学生の定期試験の成績を嵩上げしたとか,Jabee用の学生集団を学科内でcourseとして分けた,などという話が出回わっている。
 大学自体が自分自身を改善する努力をする気がないことは,戦後の大学の歴史を見れば明らかである。
 ということでdigital systemに付いてだけでも,何とかしたいというのがこのsiteの目的である。


2002年1月5日 大学院への進学

 今日新聞を読んでいたら,ノーベル化学賞の白川英樹さんが語っていた。要旨は,「どの産業も外国との交流なしではやっていけなくなる時代になった。日本の企業は博士を嫌うが,技術者が海外の人と交流するのに,修士課程終了程度では対等にはやっていけないのではないか,大学の教育課程を変えて教養部分を大学で,専門部分を大学院にすべきだ。」ということである。
 私がお手伝いをしている私大の工学部の水準では,大学院の定員も学部の1/10程度と少なく,それでも競争になるほどの進学希望者がいない年もある。授業中に学生に大学院へ進むように話をしても,場違いな雰囲気さえ感じてしまう。旧帝大・旧官立大学や早慶大のように理工系学部の卒業生数と大学院生の数がほぼ等しいか逆転しているところでは,大学院へ行かずに技術者として社会に出るなどということは想像することもできないのだが,日本の中堅技術を支えている多くの駅弁国立大学や私大では,学生たちは,大学を出ただけで専門家として通用する,と思いこんでいる。
 国立大に関しては旧文部省の政策もあり,私大としては営業戦略もあって,今はほとんどの理工系の大学には博士課程まで完備している。ところが,これらの大学の中にはJabeeと同じような手法で大学院を作ったところも多く,真に大学院教育の指導が出来るかどうかは不明である。学生はそのへんのところを敏感に感じ取って,就職先で技術者としての教育を受けよう,という虫がよいことを考えている。
 ところが現在では企業側は即戦力になる技術者を求めており,何もできない大卒の技術者予備軍を採用する気はない。中途採用・修士課程終了者・工業高専卒・大卒の順に人材を求めている。自分で実務に必要な技術力を付けられない人は,大学院か企業にその役割を求めなくてはならない。
 現実の問題として,企業は給料を払ってまで大学院の代わりをする位なら,中国に進出したほうがましという考えである。この企業側の考え方はglobal standardとして定着している。日本の企業がそれを採用するのは,世界市場で伍していく以上,当然の立場である。
 大学院は一部を除いて研究至上主義から脱することができていない。依然として大学教員の採用基準は論文の数を問う研究業績一点張りである。真に実力がある人は,若年や老年という年齢問題で排除されているだけでなく,研究業績がないということで企業の実務に付いていた人材も排除して,大学の運営に異議を唱えない人物を集める傾向にある。
 ということで,実務を知らない教師が多いため,現在の大学院ではすぐ実務に役立つ人材をあまり輩出してはいない。重箱の隅をつつくと研究論文として通り,新しい原理や方法論を提案しても難癖を付けられるのが,日本の学会である。そのようなところで学会誌論文を何点か出して課程博士の学位を取得すると,たしかに企業が言うように使えない人物が出来上がってしまう。
 それでも学生さんには,最低修士課程には進学して欲しいと思う。なぜなら,米国などで学位を取ろうとしても,社会人枠で日本の博士課程に進むにしても,学部卒では圧倒的に不利だからである。これは,私事ではあるが,学部卒で上級職甲(現在の I 種)国家公務員試験に合格して,国立研究所で研究職となったあと,大学教員を経て会社を設立したため,論文博士で学位を取るために苦労した経験から,若い人に無駄な道を歩まないことを勧めるからである。


2002年1月31日 大学でのwork sharing

 大学はいま一年でいちばん忙しいときである。定期試験,入学試験,人事と組織改革,卒論,学会発表の準備,次年度の教材の作成などいくつもの仕事が集中するのがこの時期である。私のような非常勤講師は,もう授業が終わって定期試験も遠慮して(日常課題を課しているので,成績はすでに出ている),人ごとのように言っているが,各担当の先生方はてんやわんやである。
 国立大学は駅弁あるいはそれ以下といえども,教員の数はかなり確保されているので,忙しさはまだましである。私学では国立並みにちゃんとやろうとすると体が持たないという先生が多い。どうしてこうなるかというと,人件費の問題があるからである。私学の教員の給料は国立より良い場合が多い。そのような高給を払わないと良い先生が確保できなかったという過去の経緯がある。
 しかし少ない教員で国立と同じ分量の授業をしようとしても,同じ労働量では無理なので,当然ながら詰め込み教室ということになる。私がいま情報回路を教えている大学の経営・情報工学科でも,定員以上の学生がいて,1学年100人近くの学生がいる。2000年度まで手伝っていた大学などは,200人の定員に目一杯の300人近くの学生がいた。
 こうなると全員を一つの教室で教えるなどは理工系ではとうてい不可能である。Jabeeが要求するように授業で課題を課す,などは夢の中の話しである。教員に無理難題を押しつけて授業を持たせても足りない。勢い非常勤講師という安直な手段に走ることになるが,講師を他の大学から招聘していては,忙しさの解決にはならない。本務地の学校の講義が手抜きにならない程度しか引き受けられないからである。
 それではと,企業の人に頼むとしても,定年退職後に嘱託でもやっている人くらいしか時間がある人はいない。出来る人はみな忙しいのである。しかも非常勤講師に対しての謝金は話にならないくらい少ないから,まともな人は引き受けない。私もGOQEの主張を展開・実践するために授業を持たせて貰っているのだ。
 大学教員にもあまり役に立たない人がいる。しかも,その方々にも同じ水準の給料を払っているという,企業では信じられないことが行われている。よい大学はこのような教員が少なく,悪い大学は多いということである。もしこのような教員が半分を占めている大学があったとすれば,だれが見てもすぐ崩壊すると思う。ところが,進学率の向上により,大学はずっと売手市場であったので,デモシカ教授が跳梁跋扈していても,客(新入生)がどんどんやってきた。問題を先送りしていて,現実は高校の教員より事態が悪化している。しかも,自分自身ではどうしようもない状況にある。
 では打開策はないのか。倒産させるのが一番良いが,教員の負担を半分にして給料も半分にする案はどうであろうか。不足する授業の担当は非常勤講師に任せるのである。非常勤の謝金も現在より上げて,週に4コマで月30万程度にすれば,優秀な人材でも定年前に会社を辞めて悠々自適を狙う人がいると思う。これでも全体の費用は変わらないようにできるはずである。
 講義は半分に減るから,よそからお呼びがかからない教員は給料が減るが,それは自業自得である。役に立つ人は4コマで月50万でも招聘すればよいのである。有能な教員は引く手あまたで,いまでもスズメの涙の謝金で週に1〜2コマの講義を出前しているのである。そうすれば,十年一日の授業をする困った教員に悩まされる度合が下がる。非常勤講師は必要に応じて担当科目ごと時代の流れや要請に応じて入れ換えればよいのである。また事務処理的な仕事や入試は外部に委託すれば,はるかに安くつく。
 理事者は無能な教員がいることを知っているから,高校回りをさせて学生を集める仕事や下らないことを教員にやらせて払いすぎた給料分を回収しようと考えるのである。
 いままでの教授互助会のような既得権構造を私学が破壊できないなら,独立行政法人化した駅弁大学からでも採用してはどうであろうか。
 「大学改革なくして日本再生なし」がほんとうに必要な自覚である。


2002年2月26日 若者層の失業

 大学で学生さんに接していると,自分はそこそこの大学にいるから卒業すれば,終身雇用で安定しているどこかに就職できるとまだ勘違いをしている人が多い。EUができるまでの欧州の停滞の原因は,若年層の失業が社会の刷新を妨げてきたからである。
 そのころ日本ではバブル景気に酔っていて,欧州の停滞はキリギリスに例えられた。繁栄は永久に続くものと勘違いされていた。実際いまの学生さんの親の世代の多くは,日本が伸びていった過去しか知らない。その状況で子育てをしているし,偏差値亡者である部分も多分にある。したがって親が働いている企業が突然倒産でもしない限り,失業は自分とは関係がないと思っている。
 このような親の子の多くは,偏差値神話に乗っかって大学へ入り,真に世の中に通用する実力を身に付ける事を怠っている。楽に単位を取って,バイトとデートと合コンに明け暮れ,いざ卒業となると偏差値に頼って就職しようとする。いまどき,理系の院卒でも実力を試さなければ雇わないのが常識である。
 かくて,たくさんの新卒が派遣のような仕事に就く。うまいことやって名のある会社に正社員で入っても,残業手当が出ないなどの実質賃下げが横行している。廉価に使い捨てて2,3年で辞めるのを待っているのである。這い上がった者だけを残そうという魂胆である。
 中国並みの低賃金で新卒正社員や派遣社員,下請け社員,パートを使っているのに,なぜ日本企業は中国の企業に勝てないのか。理由は簡単である。この学生さんたちの親の世代が,既得権で居座っているからである。日本企業の終身雇用は,新卒の数が管理職より多いことを前提に成り立っていた。会社の中で仕事をしているのは40代始めまでの人たちと下請けで,それ以上年を取っている学生さんの親の世代の人達は,管理職として何もしなくても高給をむさぼっていられた。ところがいまや新卒が減って人数的には逆転している。
 中高年へのすさまじいリストラ攻勢は,会社として儲からない人間を切り捨てたつもりの一番下手な生き残り策である。多くの場合仕事ができる人材からリストラに応じて会社を離れていく。コストダウンのためにパートを切るのと同じ愚である。安易なリストラは,役に立たずかつ給料水準が高い中高年を抱え込む羽目になる。
 給料並みの仕事をさせようとするから切らなければならないのである。給料のダウンを呑んでもらって,若年層と同じ仕事をしてもらうか,work sharingするのがよい。管理職としての給料に見合う仕事も出来ず,若年層と同じ仕事も出来ない人たちはどうするか。残念ながらこの層はほんとうにリストラすればよい。
 仕事が出来る人には work sharing してもらって,その分の資金で若年層を雇う。若年層の雇用を確保するのではなく,若年層に企業人として訓練させる場を用意するのである。そうしないと各企業は人事の点で必ず先細りになってしまう。すなわち欧州が過去に歩んだ道は,若年層の非専門化だったのである。このために仕事のやり方や技術の革新が遅れ,国として停滞したのである。
 学生さんは大学にいるうちが最後の実力を付ける場であると心得て,雇う会社がなければ自分で創業する覚悟でやって貰いたい。さもないと,全員が他力本願では国はおろか自分自身さえも持たないであろう。


2002年9月9日 教育改革などがやれるのは一部のまともな大学だけ

 各種の高等教育機関もバカ暑かった夏休みを終了して順次講義を再開しつつある。すでにあくせくした企業間競争の世界からこの3月に隠居して,月7万円程度の老齢基礎年金で生活する私も,年来の主張である電子・Digital回路技術の伝道者という立場を堅持するためと生活のために,この4月からあちこちの非大学で非常勤講師として働いている。早いところでは8月中にすでに授業が始まってしまっている。
 正直言って,1960年代に当時の専門学校で非常勤講師をして以来,30年ぶりの非大学での教師体験である。私のsiteを見れば分かるが,工業高専で「情報工学」を教えている。さらにsiteには上げていないが某技術専門校(公立の技術系専門学校,授業料無料,失業者は卒業まで失業保険の給付が保証されている)でもdigital回路やマイコンを教えている。
 講師給は私立の成蹊大学がいちばん高く公立の技術専門校はその約半額しか支給されていない。高専では,一応大学教授並みという最上位rankの給料(成蹊大学の約7割)が認定されているので,額は少なくてもこれ以上文句をいうことは出来ない。技術専門校は最高rankの3/4の額しか認定されていない。多分自分の懐は痛まないにもかかわらず,全体の予算を下げることに熱心な事務方がいろいろな理屈を付けて,この低い給料認定をしたのであろう。死んだ映画俳優の兄貴という人が知事をやっている地方自治体がどちらも管理しているのだが,どうしてこう認定基準が違うのであろうか。
 このようなことは,埼玉県中部の某新興私立工業単科大学で4年ほど非常勤講師をした際にもあった。この学校で3コマ教えた給料と成蹊大学で2コマ教えた給料が等しいのである。主任教授にこのことを話したら,大学の規定はもっと払えるようになっているのだが,事務方がいろいろな計算規則を作って,なるべく少なく払うようにしているのだそうだ。ことお金と人事に関しては教授会は何の力もなく,理事会と事務方がすべてを決定するのが私学だそうだ。学生の質が毎年低下して行き,定員の1.5倍ものできの悪い学生を,この給料で教えることがばかばかしくなったので,2000年度限りでこの大学から足を洗った。
 この辺のお金と人事の件についてはすでに述べたが,授業内容の実体ついては久しぶりに知ったとはいえ,大学と高専・専門校との格差に驚きの念を禁じ得ない。基本的にどこも高卒水準を出発点として講義が進められている。授業への出席義務という点からは大学とその他の教育機関は違いがあるが,義務で講義に出られても,教える方は閉口するだけである。
 言ってしまえば学生の質のお粗末さ以上に教育programのお粗末さが感じられる。授業内容の改善はすべて個々の教員の責任になっている。雀の涙しか給料が出ない非常勤講師も,週6コマしか授業をやらない教授殿と同じ責任を負わなくてはならない。これでは,まともな授業の大半を非常勤講師に頼っている一部の私学や技術専門校では,体系立った技術者教育はおぼつかない。
 でもどうしてこれらの教育機関では事務方がうようよいるのだろう。普通の企業の数倍の事務方の人員を高給で雇っている。ほとんどの企業が外注か派遣によってこなしていることを,専門性と広範囲な経験がほとんどない常勤の人にやらせているのだから,学校は改革の必要があるのだ。でも現実に事務方の抵抗は,外務省や長野県庁だけではない。そこには自分の保身はあっても教育は存在しない。
 10年経たないうちに,internetによる技術教育が当たり前になったら,これらの人々はどうやって自分の給料を貰うのだろう。


2002年10月3日 お上意識丸だし

 一昨日から後期の授業が始まった下の子供の授業は,今週一杯は初回ということで授業内容の説明し終始している教員もいる。
 ところで,大学の授業は本来半年で15回あるはずである。ところが,政治家の愚民政策の実現のためか,最近は月曜日に休日が集中するようになっている。特に今年はそれが多く,9月から12月までに月曜日の休日は実に5回もある。本来なら17回あるはずの月曜日が12回しか使えない。
 これでは一部のまともな教育を標榜している私立の有力中高一貫校が,文部科学省や東京都の執拗な勧告にも拘らず,土曜日に授業を実施するのは当然といえる。役人がお上意識で私立校の授業まで干渉するのは行きすぎである。
 ところで大学である。特に国立大学は学生に対して入学させてやっているという意識がまだまだ強い。当然ながら面倒くさいけど授業はしてやっているという態度の教員が少なからずいる。その意識の顕著な顕れがポカ休に出ている。昔JRが国鉄と言った時代,労働組合員が乗務時間寸前に突然休暇を申請する,というアホなサボタージュをやっていた。称してポカ休という。今ではそのようなことをやれば,国家公務員ではないので簡単に馘になってしまう。
 ところで大学でのポカ休は突然の休講である。ポカ休をやれば当然ながら学生のその講義に対する意識が低下する。「それほど真面目に授業など聞いてはいない。」と主張して,ポカ休や十年一日の授業をする教員が目に余る。
 このような教員が多い大学は,事務関係者もお上意識丸出しである。授業料を負担している保証人に対しても居丈高な文書を送りつけてきたり,電話をしても意識的に(仕事が増えるのを嫌がる)こっちが嫌になるような対応をする。二人の子供を大学に行かせているが,私が教員として相手しているときはへこへこしている事務関係者が,学生関係者となるとコロッと態度が変るのは頂けない。
 私は自分の授業は39度の熱があっても,当日に休講にしたことはない。取り敢えず出講して,熱があるからという理由で20〜30分ほど早く終わったことは,過去20年間で2回ほどあった。
 今日は下の子の大学では1時限目の授業時間になって10分ほどしてから休講のはり紙が出されたそうだ。5時限目の講義まで,大学で無駄に過ごさせられた,とぶうぶう言っていた。上の子は昼休みが終わったときに3時限目の授業の休講が張り出されたと言って早々に帰宅した。どちらも文学系の非常勤講師の授業だそうだ。どこかの狂言役者のような無責任この上ない行動である。多分,安価な非常勤講師の給料を言い訳にしていると思う。
 大学で既得権の上に胡坐をかくお上意識丸出しの教員の給料を下げて,非常勤講師の給料を上げるべきだ。すぐポカ休する他大学からくる非常勤講師には,払うものを払うということでもっと厳しく対処すべきではなかろうか。


2002年12月21日 お役人の教育に対する感覚

 今年度から非常勤で都立高専の授業を受け持っている。講師の待遇としては可能な限り良い方にしていただいた。学校側のご配慮に感謝する
 ところで,この学校では12月の中間試験から非常勤講師は生徒達の成績表を学校に持参しなければならないことになった。理由は紛失などの事故が発生すると困るからとのことである。
 中間・定期試験の時間割は通常の授業の時間割と異なるため,すでに決まっている他の仕事や他の授業の日程とぶつかることがあり,非常勤講師は基本的には試験監督に出かけていくことはできない。そのため生徒の答案は自宅へ宅配や郵便小包の類いで送られてくる。もし,紛失の危険を考えるなら単なるcopyに過ぎない成績伝票よりは試験答案の原本の方が手渡しの必要性が高いと考えるのが常識である。
 ではなぜ成績表の持参を強制する事になったのであろうか。邪推するに,「試験日の分も非常勤講師には給料を支払っているのに出勤しないのはけしからん。答案用紙を取りにこいと言うと,重たいなどの理由で嫌がられるから,成績表くらいは持参させよう。」と都庁あたりで考えついた思われる。いままでも成績表の書留の費用は自腹だった。ちなみに私大では書留の切手が張ってある封筒をくれるところもある。予算削減などという理由は成り立たない。
 多くの私大では非常勤講師の給料は固定給で,授業時間数と単価から年間総額を決めて,それを12等分して支払う。その中に補講や試験問題の作成,採点・成績表作成の費用も含まれているとしている。その基準は休日などの実情とは関係なく,半期15回の講義をしたと仮定して計算されている。
 しかし都立高専では講師料は実際に授業をした回数に単価を掛けたものになっている。したがって,試験の日に監督として出勤したら,試験問題の作成や採点・成績付けの労力は悪名高いservice残業になってしまう。普段の講義のための教材作成も本来有給の仕事であるが,日本の習慣として非常勤講師は無給で作成している。これに費やす時間は講義の時間に等しいかそれ以上である。すなわち現状でも講師料の実質単価は支給額の半分以下である。
 たぶんお役人は,「講義の準備などしないおふざけな非常勤講師に払っている講師料が高すぎるから,成績表ぐらいは持参しても罰が当たらない。」と考えた,と推察したら穿ちすぎだろうか。実際に郵送やemailで済む成績表を持参するには,私などは往復3時間を浪費しなければならない。この往復の時間にはだれも対価を払ってくれない。
 ところで年度途中で約束ごとを変えるのは,sportsの試合中にruleを変えることと同じく,やってはいけないことである。教育を担当する文部科学省の役人達は,生徒にはrule,ruleと締めつけをしていて,一方では都庁のお役人は自分勝手にrule変更している。
 実際にかわいそうなのは生徒たちである。私はお金が稼げる時間を半日も潰してタダで成績表を持参したくないので,最後の授業の終了後すぐに成績表を提出してしまうことにした。そのためには定期試験をやっていられないので,毎回の授業中に小testを実施したり,課題を提出してもらうことにした。これは私が年度当初に生徒に公開したruleを一方的に変えることになるが,お役所が先に勝手にrule変更したのだから,一番の弱者である生徒に皺寄せることになった。
 なお,私の都立高専の授業は月曜日にあるため,今年度は年間で講義の時間は25回しかない。これでは時間が不足するので補講をしようにも,補講の日程すら確保されていない。もし無理をして日程を確保したとしても,現状の非常勤講師の待遇では,その補講の時間はまたまた無料奉仕になってしまう。生徒たちに良い授業を受けさせようと考えたら,お役人の脳味噌の中身を入れ換えなくてはならない。


2001年,2002年版完