Dr. YIKAI の言いたい放題「技術教育」

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2005年1月3日 生活科
2005年2月10日 浪人生がいなくなる
2005年2月25日 認識台湾
2005年5月11日 学位工場
2005年8月11日 正統派
2005年8月30日 半民営化

2005年1月3日 生活科

 今日は晴れで風が強い。凧揚げには絶好の日和である。年賀状の到着を見るために会社へ行く途中,荒川放水路に懸る橋を渡った。行きは昼前で帰りは15時ごろだったが,土手で凧揚げをしている子供たちを見受けることはなかった。去年は2,3人の子供が凧を揚げているのを見かけたが,今年は私に運が向いていないのか誰もいなかった。凧揚げはもちろん,10m程度の落差がある土手の内側の斜面で草滑りをしている情景にも行き当たらなくなった。
 6,7年前までは土手で凧揚げをする子供たちが鈴なりであった。考えてみればgame機のPlay Stationが発売された頃までは,正月に子供が外で遊ぶのが普通であった。Game機やパソコンが原因か,はたまた少子化,児童誘拐の横行が原因かは分からないが,このままでは凧を揚げる技術というか文化は,子供たちに普遍のものではなくなり,特別の民俗学的な伝承になってしまう。
 すでに独楽回しや羽根突きは,民俗学的には過去の遊びとして認識されているのではなかろうか。実際には遊びだけでなく,家庭で子供たちが親や友人・年上の遊び仲間から得ていた技能や文化の伝承が,急速に衰えつつある。パソコンや携帯電話・game機がその技能や文化の代替をしてはいないが,時間的には子供たちの脳味噌を占拠している。
 ところで,新年の番組を見ていたら,「バカの壁」(註)の著者の養老孟司教授が,「子供に活力がなくなったのは,自分から挑戦する環境が減ったからだ。」と言っていた。その例として,「Gameはテレビをただ見ているよりはましだが,必ず動くという前提があり,自然界や人間社会とは違い,積極的な働きかけによるcommunicationが不足してしまう。」ということであった。さらに具体的な例として,「Boy Scoutsの集まりで焚火をすることもできないほど,日常生活の知恵(技能・文化)が失われている。」とも話していた。
 まさにその通りである。凧揚げをしなくなったのは,gameなど他の楽しいことに時間を取られただけでなく,凧を揚げるという技能の伝承が途絶えたからである。凧揚げに熱中する世代は,技能の発達段階から見て,小学校の3年位から中学1,2年までの間である。この世代の親は今30歳〜40代前半と見てよい。大体1960年から75年頃の生まれであり,この親達の成長期には,日本は高度成長を遂げ,すべてのものが便利になった。マッチを刷ってガスコンロに火を点けることもなくなった。子供たちが初めてマッチを使うのは隠れてタバコを吸うときであるかもしれないが,それとてもライターが主力である。凧は出来合いのものを親が買って来て揚げてくれた時代である。技能の伝承が商業主義と入れ替ったのだ。
 私の世代は,凧は組立てkitを買うにしても自作でも,自分で竹を曲げ紙や布を張ったり,尾や糸を調整して揚げた。すなわち,教えてもらいながらも自分で技能を習得したのである。このようにして育った世代が,日本の高度成長期の技術を支えてきた。 今日本ではその技術を支える技能を習得する伝承が途絶えつつある。知識だけを溜め込んでも,世界に売れる商品を考えることはおろか,仕様に合った製品さえも作ることはできない。
 話は私事に及ぶが,倅が小学校の低学年だったときの担任はすでに引退したが,生活科を創り出した初等教育界の重鎮達の一人である。学年主任を兼任していた担任に率いられて,この学年は3年生の冬に多摩川の河川敷で,手作り凧揚げ大会を開催した。優劣を決めるのではなく,自作の凧を何とか空に浮かべる総合(生活科)の学習の一環である。15年ほど前のこのときでさえ,子供たちは自力で凧を作って揚げる伝承を失っていた。私も当然ながら子供にその技能や文化を伝承していなかったので,わが子が作った凧はそのままでは到底揚がらないことが,見てすぐ判った。
 前もってPTAにお手伝いの要請が来たので,寒風吹き荒さぶ多摩川まで土曜日に付き合って出かけた。子供達の手作り凧は,ほとんどbalanceが取れていなかった。その上,尻尾と糸の中心を結ぶ線が重心を通っていないので,揚げるとくるくると回ってしまう。左右のbalanceを取るために形状を直すように教え,糸の中心を重心と調整するように教えると,ほとんどの子供の自作凧は上がるようになった。上がらない凧を担任と折半で面倒を見た。
 参加したPTAの多くは母親だったせいもあって,凧の改良にはあまり役に立たなかったが,数人参加した父親も私よりは年代がかなり下だったせいか,凧揚げの技能の伝承をあまり持っていなかった。私は,子供のときに凧揚げが下手な方だったことを思い出して,時代の変遷を感じた。
 ところで,この担任達が提唱した総合学習であるが,旧文部省によって生活科として実施されたとき,小学校の先生方からさんざん悪評を受けた。実際になにをやればよいのかが判らずに,街の店を調べたり,ひたすら自然に接するだけ,あるいは別の課目の遅れを取り戻す時間に充当したりした。
 この凧揚げの例から見て,生活科は当初はどういう内容が想定されていたかに拘らず,すでに失われてしまった1960年代以前の子供の生活環境を教室で再現することにより,未来の人材を育成することが重要な目的になったと思われる。 
 日本の現在の閉塞感の一つに,将来を担う若年層の見通しの悪さがある。それは,自分で凧を造って揚げるような努力を怠り,むやみと知識だけを詰め込んで,学が成ったと思いこんでいることにも原因がある。すでに成人してしまった層は間に合わないが,いま小学校の低学年の子を持つ人は,子供を真の意味の生活科の環境に置くことをお勧めする。

註:
 2003年に発売されたこの本は,non-fiction系の新書判では過去最高の販売部数を記録した。前半は博士一流の分かりやすい解説で役に立ったが,後半は養老博士の愚痴というかぼやきを並べただけの愚作である。

追加 2005年1月20日
 文部科学省は2002年度から正式導入された総合的な学習の時間(生活科を受けて高学年で行う活動)を再検討するすることにした。理由は,「国語や数学の時間が削られて,学力が低下する。」からだという。残念ながらこの国ではこの種の教育を導入するのは遅きに失したのだ。すなわち,子供時代に自由に遊んで生活の知恵を身につけている先生がすでにいなくなってしまったので,教えることができないのだ。国家の斉唱など,国の方針としていろいろの事柄を教師に押し付けているのも,力を削がれている一つの原因である。
 どの道,「この国の高度成長を支えて来た,自由な発想で物事を処理できる人材を育て上げることは,もう不可能になってしまった。」と考えてよい。戦前は確かに学校では強力な軍国主義教育をしていたが,下校後は比較的自由であった。そのような拘束がない状態で初めて人間は育つのである。
 集中講義としての学校教育は読み書き算盤で十分である。それくらいなら月〜土の午前中で十分である。子供たちに午後の時間を返してやり,運動・芸術・遊び・受験勉強など,本来地域や学校以外の団体で行う活動に解放すべきである。


2005年2月10日 浪人生がいなくなる

 ここ数日,多くの私大の入試のpeakを向かえている。その中で,医歯薬系を目指しての詰め込みというかカンヅメ教育で有名だった両国予備校は去る8日最後の授業をして閉鎖となった。すでに明治期からの伝統を持つ研数学館も2000年には閉鎖され,本館は大正大学が使い,別館は居酒屋chain storeの和民のお店になっている。
 しかし,文部科学省のsiteから調べると,今春新たに認可された大学は12校(首都大学東京・大阪府立大学・広島県立大学・山梨県立大学など大型の改組によるものと短大の改組を含む)という多さである。学部・学科の増設はさらに上回る。
 当然ながら入学定員は前年度より増員となるが,毎年3〜4万人のpaceで大学受験者が減っている現状からすると,現在約13万人と言われている浪人のstockが,数年以内に2〜3万人以下に減少し,医歯薬系や難関大学を目指す者以外は,大学を希望する者全員の入学が保証されるという状況になる。
 大手予備校ではすでに資格取得・社会人教育や大学入学後の教育,あるいは入学試験そのものへとその商売のtargetを変更している。ただ,大学を受験する者がいるかぎり,現役高校生というお客がいなくなるわけではないので,主に浪人生を相手にして来た両国予備校などを除けば,縮小しても経営は成り立つかもしれない。
 問題は大学である。先日訪問した台湾では,新竹市にある私立の玄奘大学の心理学科は昨年志願者が一人しかいなかった,という噂を聴いた。台湾は少子化が日本より進んでいて,大学の入学定員はすでに高校卒業生の半分に達している。
 日本も早かれ遅かれ同様な状況になるのは間違いない。予備校の河合塾が(全入のため)難易度不明というF rankの評価を下す大学はどんどん増えるであろう。
 大学に入ってからの教育内容は,表向きは改革しつつあるが,水準が低いと言われる大学ほど,実態はなにも変っていない。同世代人口の半分に大学水準の教育するとなると,とても従来の形での教育は成り立たない。にもかかわらず,理事会と大学教員の互助を目的としている大学は,定員削減や教育内容の変更はなされないまま,大学大量倒産の時代を迎えることになる。
 理工系では,事実上の教育は大学院の博士課程前期(修士課程)で行わなくてはならないのが現在の姿である。文科系も法科大学院の大量バラ撒き設置認可で,単なる法学部卒の意味はほとんどなくなるであろう。
 子供を大学に通わせている親にとっては,大学定員の増大は教員水準の平均値を下げ,薄まった教育を長い間受けさせなければならないことにつながる。費用ばかりかかる大学院卒業まで面倒を見た上にNEET化するのはやり切れない。


2005年2月25日 認識台湾

 東京都は名門校旧制府立第一高等女学校の伝統を引き継いだ都立白鳳高校を改組してこの4月から中高一貫校にする。先のことが読めていない親や受験生はこの学校に高い倍率で応募した。
 この学校では,靖国神社を高く評価し,日中戦争の正当性を主張するフジTV groupの扶桑社(註1)が出す,国粋的な歴史教科書を使うことが分かっている。これは多分石原都知事とそれに阿る東京都教育委員会の意向である。
 広島県の教育委員会もこの志向を持って,去る2月7日の会合で傘下の市町村の教育委員会に「新しい歴史教科書をつくる会」(以下つくる会)の教科書情報だけを特異的に配布して,暗にその採用を促した
 時の政権や御用学者が歴史を捏造するのは,孔子が書いた春秋を初めとして古代中国以来の伝統である。このため,正しい歴史を記録しようとして王や皇帝に殺された史官は枚挙にいとまがない。
 日本の歴史も当然ながら捏造が正当化されて来た。古事記よりは日本書紀のほうがその度合が高い。この日本書紀の記述に基づいて作成されたのが,戦前の軍国時代の皇紀であり紀元節(今の建国記念の日)である。歴史の捏造は日本や古代中国の歴史だけでなくGreece(ギリシャ)やRomaの歴史も同じである。ただ,日本以外の多くの国は神話に基づく日付を建国記念日にしていないだけである。
 北朝鮮だけでなく,中国や韓国,以前の台湾でも中等教育で使う歴史教科書は,すべて自国に都合がよいように編纂されている。その中身は読めば誰でも判るが,その教育だけを受けて純粋培養された北朝鮮や中国の一部の連中に日本人が囲まれたら,財産はおろか命の保証もないような反日教育一点張りである。昨年の中国におけるfoot bowl試合の反日propagandaを見れば誰でも容易に理解できる。
 それは,自国の政治・経済がうまく行っていない原因を,日本の侵略に帰そうという意図からである。中国で反日デモをする連中は,動員がかけられたか,貧困に喘いでいる連中の政治的主張を代弁する輩であろう。
 台湾では1997年に「認識台湾」という中学での歴史教科書(註2)が編纂された。この教科書は「つくる会」の教科書とは全く反対に,それまで極度に反日偏向していた歴史教科書を中立的な記述に直し,台湾の歴史を主に採り上げた点である。すなわち南京にある中華民国政府が台北に亡命政権を作っているという虚構上で行われていた台湾の歴史教育を後世の歴史学者の中立的な評価に耐える水準に引き上げたのである。
 その背景には,台湾は経済的にも一定の水準を越え,政治的にも多党化が進み,政権交代が公明な選挙下で民主的に行われるようになったゆとりからであろう。
 日本のように選挙はあっても,利益誘導により特定の政党が長らく政権を握って,教育や外交に硬直性を保っていると,溜っている国民の不満をぶつける先として,外国からの脅威を声高らかに叫ぶのが都合がよい。多くの日本人は,政権党のこの誘導にたやすく乗っかって,とかく日本人の感情を逆なでする中国の共産党政権と,反日教育で育った中国人の行動に反発し,外国の脅威を必要以上に信じてしまう。
 その先には,相互不信といわれのない嫌悪感や侮蔑意識がお互いを戦争状態にまで持ち込んでしまう歴史の経験がある。「つくる会」の教科書で育つ偏狭なnationalismを持つ若者は,沈み行く日本に取り残される運命を甘受するしかないだろう。
 その意味では,台湾の歴史教科書の試みは,「つくる会」の意図とは反対の結果を生むことが期待できる。現共産党政権もそのまま引き継いだ伝統的な中国政権の形ではない,民主政治を一度でも知ってしまった台湾の生き残り策は,台湾人が広く世界に打って出ることしかない。自分達の置かれた地政学的な地歩をよく理解して行動できる台湾人が育つことが期待できる。

註1:
 Live Doorによるニッポン放送の株の買い占めで,政府や自民党の連中,特に神の国発言で物議を醸した森前総理がフジTV側に極端に肩入れし,法律まで変えると騒いでいるのは,じつにこの扶桑社がニッポン放送の子会社であるからである。
 堀江氏がニッポン放送の代表者になってしまったら,その合理性から見て儲かりもしない教科書の出版から手を引くのは明らかだからである。そのとき,儲けをふいにしてまでこの怪しげな教科書を出版するところはないと思われる。

註2:
 この教科書の意義については,現代台湾法・政治の研究をしている松平徳仁氏の評論(台湾における「文化的脱中国」の動きをどう見るべきか)に詳しく述べられている。


2005年5月11日 学位工場

 日本でも学位を多量に発行する時代がやって来た。日本では,すでに医学博士ではない医者は,患者からバカにされるので,無理してでも学位をとる状況にある。
 今後専門医制度が整備されるにつれて,学位がない医者は専門医になれないことになるだろう。
 同じことが工学の分野のみならず,政治や経営・経済学などの分野にも拡がりつつある。MBAではもの足りないのである。現Bush政権の女性国務長官のRice博士は,弱冠26歳でColorado州のDenver大学から国際政治学で学位を取得し,名門Stanford大学の教授になっている。
 伝統を重んじる欧州とは違い,米国では工学関係の博士の学位は,単に研究者や技術者として雇ってもいいという資格でしかなくなりつつある。学位がないと就職にも響くという訳だ。そのためか,buildingの一室に大学という名のofficeを構え,世界中に学位を販売する業者が米国で大量出現した。
 NHKの報道によると,米Oregon州では251ある大学と称する組織の半数以上が,学位認定に適合する水準にないと州政府が判定したそうだ。その中には学位証書のcopy機しか置いてないところから,一応大学の形は取ってはいるが,学位認定に必要な教員や研究者を有していないところまである。
 米国は自由の国であるがゆえに,そのどれを選択するかは,消費者の自己責任であり,そのようにして得た学位を信用するかどうかも,その人を受け入れる社会や組織の責任である。州政府は基準に満たない学位で州に就職した場合,$1,000の罰金を科すという。
 連邦政府の中枢にいたとある役人も,学位を買った疑いで辞職に追い込まれたという。一方,米連邦政府は学位の販売を罰する法律がないので,そこで得た学位が社会的に通用する大学のlistを公開しているのみである。
 米国人の履歴書を見ると,いつどこの大学で(どの先生に付いて)何の研究で学位を取ったかを明記するのが普通である。その人の評価をする側の便宜が図られていない称号は,書かれていても無視されるか,かえって過小評価される。
 ところで,私のところにも,この手の学位取得勧誘のmailが英文・日本文の両方で時々届く。Mail addressは多分私のsiteから拾ったものだと思うが,そのようなことが煩わしいので,ちゃんとDr.YIKAIと書いてあるにも拘らず送られて来る
 多くの内容は,あなたの経験や雑誌記事などを研究や在学の単位に換算し,研究論文のscoreとして扱う,という訳がわからないことが書かれている。最後に経費として数万$を振り込むようにという指示は忘れない。
 このようにして学位を買う日本人も,けっこう多い。私の知人で大学を出ていないが,医療隣接分野の資格で保険治療をしている人がいて,これはどうかと,問い合わせがあったことがある。私は当然ながら,おやめなさい,と伝えたが,彼の同業者の中にはそうして得た英文の学位証書を,堂々と彼の治療室に掲げて,患者を煙に巻いている人がいる。
 彼は,放送大学で大卒と修士卒の資格を取るべく頑張っている。さらに,とある医科大学の彼の仕事に隣接した診療科の医局へ潜り込んで,研究発表と学位論文の著述にも熱意を燃やしている。
 履歴書に書かれている学歴を調査する会社が日本にもできたそうだ。そこによると,代議士だけではなく,10人に一人は中退なのに卒業とか,夜間部を昼間部とか,何らかの小さな学歴詐称をしているそうだ。世の中が学歴社会である以上,このような現象は必ず起るということは,日本でもちゃんとした個人の評価systemが必要な証拠である。
 資格社会では日本に比べて,一日はおろか一千年の長を持つ中国では,最近理系の学位を持つ人が大量に発生している。役所の若手の名刺には博士と入っている人が多い。
 米国では実態がない大学が学位証書を出しているが,中国ではれっきとした国立の大学がどんどん博士を出している
 中国のとある有名な大学でinterviewしたとき,論文は中国語で一本,研究はprogramの開発や回路の設計でもよい,という基準だと説明を受けた。
 「これでは,世界に通用しないし,中国産の機械と同じように,安価な量産品と思われてしまう。」と言うと,「世界が学位がある人を評価するのだから,いかに簡単にそれが取得できるようにするかが,大学の勤めだ。」と,いとも簡単に躱されてしまった。
 中国産の博士の称号が,今まで中国の中年技術者全員の名刺に書いてあった,中国独自の肩書きである高級工程師の称号と同じ運命を辿るのは,時間の問題であろう。
 問題は,日本である。日本を取り巻く諸外国がこのようでは,結局悪貨が良貨を駆逐することになるのは,明らかである。日本でも最近学位を粗製濫造することで,独立法人化した国立大学の収入源としようという考えが拡がっている。
 これで米国並みに大量発行すると,中国と同じことである,と世界中から認定されるのが怖い。しかし,現実問題として,米国人と中国人技術者が名刺に学位を記載していて,同じproject teamの日本人だけが学位がないとすると,実力では遜色ないか圧倒していても,対外的な信用度や肩身が狭く,イマイチ発言に権威が不足する,などで損をしてしまう。
 日本もこれから10年位で,私が大学を出た1960年代初頭頃の大卒の対同世代人口比と同じ割合(約10%)で学位取得者が出ると思われる。
 博士の上の資格は何であろうか。大学教授も大学が増えすぎて,ODA教授まで出現するようになった。世界に通用する上位資格は,Novel賞くらいしかないが,それも米国の有力大学では,石を投げればNovel賞学者に当たるというくらい,複数人同時受賞が増えている。
 中国の資格試験の科挙では,時代が下がるにつれて,屋上屋を重ねる試験(資格)が積み重ねられて行った。博士とNovel賞の間の資格を大至急準備しなければなるまい。

2005年5月17日改訂


2005年8月11日 正統派

 最近韓流ではなく,大hitしている台湾のイケ面F4のdrama「流星花園」の影響で,華流が取りざたされている。台湾でのF4の公演を見るために中国語を学ぼうというおばさんも増えている。このdramaは日本の漫画「花より男子」が原作である。平和な時代である。
 私は,理工系の大学を出て数年たった日中関係が最悪だった時代に,日中学院という各種学校で中国語を学んだ。いわば中国語学の正統派ではない。民間の裏口派である。したがって見るべきものは発音くらいしかない。中国語を学ぶ人間はアカ呼ばわりされ,極左の毛沢東主義者か気違い扱いされた時代だった。
 当時,日中学院の同窓生には大学とのdouble schoolで,言葉は日中学院,中国学・文学や中国語学は大学という人々も結構多かった。さらに日中学院を卒業してから大学に入り直したり,大学で中国語学を修めてから日中学院へ来たという人もいる。
 ところで,大学における中国語の教師は,やはり大学で中国語学や中国文学をやっていないとなれない,といわれている。もちろん学術論文などの点で大学以外のところで学問を修めても,誰も評価しないのが現実である。
 建築の世界では,高卒で東大教授になった例もあるが,個人の才能が露に出ない中国語では,結局権威がすべてである。このような状況下では,日中学院で中国語を学んだということ自体も隠すべき事柄である,という心理になっている卒業生もいる。そのようなdouble school派のとある私大の先生は,日中学院を卒業した割には発音が上手くないが,日中学院で学んだということを指摘されるのをひどく嫌っている。
 日中学院は,中国語学界の泰斗故倉石武四郎博士が東大を定年退官した後,自らの信念を実現するために半世紀以上前に開設した各種学校である。その信念とは,「言葉は,耳と口から覚えるもので,古典といえども音読しなければ意味は解らない。」という語学の極々基本的な事柄である。その言わんとすることは博士が戦前に書かれた,「支那語教育の理論と實際」という小冊子に語られている。当時は,このようなことを実践するために学校を作らなければならないほど,日本の権威主義はひどかったのである。
 しかし,このような歴史を持つ日中学院でさえ,卒業の事実を隠すという恥ずべき行動に出る先生がいるということは,日本の中国語教育の世界にとって嘆かわしいことである。この先生が職を得ている大学が多分に右翼的な雰囲気なので,極右の街宣車が押しかけてくる(註1)ことを嫌ったのかもしれない。
 私は,大学と各種学校がその立場を分け合って,片や中国語学や中国文学・哲学および中国学に重きを置いて教育し,各種学校はskillの向上を主眼点として言語の習得に専念するという構造は,意味があると思っている。
 ところが最近大学生のなり手が不足したせいか,あるいは学問を教授することが面倒になったせいか,大学で各種学校並みの語学力が付くことを宣伝するところが増えた。
 古くから中国・中国語関係の講座を持つ大学以外では,このように各種学校もかくやという教育を売り物にしている大学が結構多くなった。しかし,大学の限られた時間内で言語と学問という二刀流は多分虻蜂取らずになると思われる。本来言葉はそのback groundを知らねば身につかない。その意味では,言葉よりそちらが先である。人によりcaseは異なるが,double schoolか言葉を先に大学は編入,大卒後大学院へ行く際に言葉,あるいは在学中に1年ほど語学留学ということになる。
 言葉を学ぶという観点からすると,18歳位の若いうちに身につけたほうが効率が良い。大学,特に文系はとかく遊びが多くなるので,各種学校で2年くらい徹底的にやってから,大学の2年や3年に編入するのがよいと思われる。
 大学が,正統派としての権威を自ら捨て去ってまで,学生集めという商売に走っている姿は,情けないと思われるが,それも自由競争社会での淘汰の過程であると考えれば,納得できる。私のような裏口派が今後どれだけ生き残れるかは解らないが,正統派は矜持を捨て去った後に残るのは,過当競争しかないのではないか。
 ところで,中国の書籍閲覧site(註2)での最近のtop 10に,評判の経済解説本「水煮三国」を押さえて,学問書に近い「性愛聖経」が上がって来た。私は,このような中国pornoに興味を持って中国語の学習を続けている。辞書にも載っていない単語や言い回しが多く,正統派では学ぶことができない内容である。大学がskillに走っても,なかなかこういった裏口派の分野までは到達できないだろう。裏口派の真骨頂はpornoや金庸などの武侠小説にある。

註1:
 日中学院へは,中国の共産党政権が対日強硬姿勢を打ち出す度に,極右の街宣車が大挙して訪れる。私が学んでいた1960年代後半は街宣車ではなく,私服の刑事がわれわれ学生を尾行していた。

註2:
 陳清書斎(http://www.oa18.com/read/)。生のporn短編「少女之心」も以前は読めたが,中国政府の圧力がかかったのか,この伝説の名作は最近は読めない。繁体字版と簡体字版の両方をdown loadしておいてよかった。


2005年8月30日 半民営化

 気が狂ってしまった小泉総理がまたまた感情論と特定宗教の国教化を目論む宗教政党を味方にして選挙に打って出た。ところで,小泉総理が就任のとき,声高に騒いだ,米百俵はどこへ行ったのであろう。誰かが食べてしまったのだろうか。
 本来,教育こそがこの日本を立ち直らせる原動力だ。中国の急速な台頭の背景にも,効率は悪いが暗記中心の教育体制の普及がものを言っている。

 さて,このようは背景の中,私は来年の春から予定されていたある大学の非常勤講師を断られた。もちろん,私の力のなさが原因ではあるが,その大学は独立行政法人化の中で,経費節減のために非常勤講師のスズメの涙のような講師料さえ削ることにしたのだ。
 これを企業努力として誉めてよいものであろうか。むしろ今は百俵の米を食べないで,教育にかけた明治人の気骨に見習うべきではないであろうか。私のdigital技術の講義はたった半年で,講師料は10数万円に過ぎない。このような些細な金額を削るまでしなくては成り立たない,独立行政法人という国立大学は,その存在意義が疑われる。役に立たない教授を一人減せば,50人の非常勤講師が雇えるのだ。
 私の講義が下手なので,他の先生に替っていただくというのは結構であるが,もともと学内でその課目を教えられる先生が足りなかったのでお手伝いすることになった。文部科学省の設置審にまでかけた新しい教育課程を一部放棄してしまうなら,最初からそのようなcuriculum自体に計画性がなかった,ということである。

 実際に情報や電気・電子系の工学部でdigital技術を教えないという大学は,探すのが難しい。それだけ多くの大学人はその必要性を認識している。
 私がいま教えている私立大学の情報科学科のように,先行のdigital回路2課目4単位に続いて,私がHDLでのIC設計を教え,合計6単位などという贅沢は言わないが,この世界で役に立つだけの力をつけるには,この国立大学の半年2単位でおしまい,というのは不足だ,というのが私の元々の認識だった。

 実際,米国の真似をして学生に多大な負担を強いないと,講義をしたmeritがないと思っていた。いっそのこと講義そのものがなくなった方が,この大学の学生にとっては幸せだと思う。もちろん,大学で何かを得たい学生にとっては不幸なことになったと思う。
 では,どうしてこのような些細な金額を削らなくては独立行政法人の経営が成り立たないのであろうか。通常の企業なら,経費が高い割には何もできない正社員を削減し,安価なpart timerや専門的な実力が高い派遣社員を使う場面である。商品やserviceの品質を落とすわけには行かないからである。事実,私立大学では非常に多くの非常勤講師に頼ることで,自学の教授陣に不足している学問分野の教育を学生に供給している。
 しかし,この大学はその最大の売りの一つである教育課程の品質を維持しようという気がないように思われる。この大学はなぜこのような決定を下したのか。それは大学が長い間の売り手市場であったため,学生を育てて社会に供給するという本来の目的を完全に忘れ去り,教授互助会に成り下がってしまったからである。卒業証書を発行し,就職の世話ができればよい,教授は好きなことをやっていて高い社会的地位と給料を貰う権利がある,と大学も学生も思っていたのである。
 実際このような大学は,そのうち企業側からの人気も薄れ,受験生からも敬遠されてしまうであろう。大関互助会である大相撲の人気がどんどん下がるのと同じ原理である。

 過去の栄光に縋って,自己改革ができないのは,他の日本人も同じである。今度の選挙の結果,いまさら時代遅れな小泉総理の郵政民営化が行われたら,多分その後の郵政の姿は,すでにあせって独立行政法人化されてしまった結果,活力が失せつつあるこの大学の現状と二重写しに見えるだろう。
 郵政事業は,民営化されてしまった後は,政治や役人の監視さえ及ばない状態になる可能性が高い。今の内に郵政内や関連している多くの人々の互助会であることを止めさせないかぎり,小泉のようにあせって民営化しても将来がない

 英国や米国のように,過去国力が増した国は,その国の教育が売りになるのである。遣唐使ですら,学僧が多く同行した。すぐには利益を生まない教育投資こそ,外部の監査が入る形で,国の力で維持しなくてはならない。日本は国力があっても,もらった百俵の米は,すぐに食べてしまったのだ。自民党の走狗である刺客となって郵政民営化を叫ぶホリエモンに,中退した東大の教育の価値を聴いてみたいものだ。やはり,すぐ利益にならないことには,彼は関心がないのであろうか。


2005年11月28日 大学院のインフレ

 長野県で開校しようとしたinternet大学院が認可されなかった。新聞によると,学長室が理事長の自宅の60m2ほどの二階では,設置基準が満たされていないからだめという理由である。今の設置基準を厳格に適用したら,文部科学省がいうことは法律的には通るであろう。
 私見ではあるが,この大学院を認めるのは,私もちょっと躊躇する準備情況である。同じ長野県ですでにinternetを利用して大学院を開設している信州大学の情況と比べるとあまりにも見劣りする,というか眉唾に思える節がないわけではない。
 しかし,現実には,この二階の学長室とたいして変らない問題を含む大学院が陸続として認可されているのも事実である。

 すでに日本では,学部卒は学問があるとは見なされておらず,文系の学生ですら大学院へ進み,MBAなど有効な資格を獲得することを目指している。理系に至っては,東大を始めとする旧帝大および旧官立大学クラスの大学では,大学院へ進まない学生は何か問題点があるのではないか,と疑われてしまう。
 有力企業はすでに,単なる理系の学部卒を開発などの正社員として雇うところはほとんどない。理系の学部卒は現場作業や保守要員か販売関係の口が正社員として残るだけである。後の必要な要員はすぐに整理ができる派遣会社からの臨時社員として雇うのが常である。
 事務系の女子社員に起った現象が,技術系の社員にも起きているのである。日本企業は僅かな人数の中核社員とその他大勢の社員(労務者とでも言ったほうがより的確)にしようとしている。

 この形は米国のそれであり,小泉と竹中が考えている理想の日本社会である。平場での競争社会は,互いの能力の直接の対決で決着が付く。すると,国民の約10%程度がこの勝ち組なり,残りは下の階層に取り残されてしまう。
 たとえば,ハンデを付けないgolfの試合はプロだけの世界である。素人はハンデを付けることで,コンペを楽しんでいる。さもないと,誰も強いやつとgolfをやって(1枚幾らに付くのかわからない)チョコレートをむざむざ巻上げられる人はいないであろう。
 すべての国民が参加する社会で,すべての分野でハンデなしで争わせたら,最初から勝負をあきらめる人が出てきてneet化するのは,当然である。

 かつて日本では,恵まれない階層にいた学問に燃える若者は,奨学金とアルバイトで大学の門をくぐって行った。しかし,大学院ともなると今の経済状況では富裕層の子弟以外はなかなか入れないのが現状である。
 


2005年版完