Dr. YIKAI の言いたい放題「技術教育」

2006年版 Copy Right 2006 Dr.YIKAI Kunio

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2006年1月2日 開発拠点の国外移転
2006年4月4日 格差社会の固定化
2006年5月26日 愛国心の義務化
2006年7月30日 頭脳流出
2006年9月28日 英語教育
2006年12月26日 星条旗は永遠

2006年1月2日 開発拠点の国外移転

 昨年の暮れは電子製品の開発の手伝いに上海に行ってきた。といっても,開発をしているのは客先と製造を請け負った会社の上海のbranchの技術者である。客先の技術者は仕様を決定し,system設計やHDL,programの仕様を書く。請け負う側は細かい部品を決定し,回路図を引いて基板を起し,試作品を作る。動作試験は両者で行う。上海の技術者の仕事は,従来私が日本でやってきた製造設計の下請け作業そのものである

 電子技術と中国語ができる私の出番は,相互の意思疎通の手伝いであり,両者の間で英語での会話がある程度成り立つようになれば,無理に出しゃばる幕はなくなる。
 日本の客先の技術者は当然ながら,上海の技術者もかなりの実力を発揮した。この点だけから見ると,日本の技術の将来は心配ないような気がするが,いままでのように製造だけを中国に依頼する形態からの変化として,このような国境を越える開発は今後もどんどん増えると考えられる。

 さて,この仕事で出会った日本の客先の技術者は問題ないとしても,今後このような開発作業がどんどん国外に移転していくと,日本の若い技術者をOJT(On the Job Trainning)で育てることが困難になってくと考えるのは,私だけであろうか。そう,OJTを実施する現場がなくなってしまうのだ。Displayの上だけでものごとを理解して,hardwareが完成すると感じてしまう人間を輩出する虞がある。

 以前は,小学生のころから電子工作に血道を上げ,大学も電子技術系に進み,疑いもなく電子技術者になったオタク技術者がたくさんいた。かくいう私もそのような一人である。大学に進むときに,西遊記を原文で読むために中国文学に進むか,オタクであった電子工学に進むかで迷っていた時,国文科を出た親から,「中国文学などを出ても漢文の先生位にしかなれない。もし再び戦争が起ったら,文科系の人は真っ先に兵隊に捕られる。」と,第二次世界大戦の記憶がまだ風化していない敗戦14年目の時期に言われ,大人しく親の言うことに従うことになった。

 卒業式の謝恩会で大学の教師の一人から,「オタク(当時はそのような言葉はなかったが,言いたかった表現は正にこの単語である。)は専門家になれない。」と言われ,すでに国立研究所で電子計算機の研究をすることが決まっていた私は,カチンときた。
 それからの人生は,私は十分にオタクを発揮して過ごしてきたが,専門とする仕事に謙虚で熱心であれば,オタクが有利とか不利とかいう差はまったく感じられなかった。
 むしろ,現場に出る機会が多いかどうかが,hardware技術者として成長できるかどうかを決定している,と思われる。

 この点で,単なる量産を国外で行うことと,製造設計を国外に出すということの差はたいへん大きい。現在では日本での製造設計が高くつくという経済的な理由から,国外にこのような仕事が流出している。
 この状態が続けば,このような技術者を国内で育成することができなくなり,10年も経たないうちに,日本国内では製造設計ができる所がないから,高くついても国外でやるしかない,という状況に落入るのは,火を見るより明らかであろう。

 このような状況は,日本にとっての基本戦略である技術立国の一部分を外国の技術者に頼ることになる。いま小泉の自民党が導いている政治はこのようなことを考慮しているのであろうか。国家利益の源泉の首根っこを押さえられたままでは,政治的にぶつかることが大好きな今の日本の政治では,いつでも日本の技術はひっくり返されてしまいかねない。
 私は,そのころはもう技術には関与していないと思われるし,うまくするとあの世にいるから関係ないが,若い技術者は上海にでも渡って,現場の技術を身につけないと生きていけない世の中になっていくようである。


2006年4月4日 格差社会の固定化

 今年は冬の入りが寒かった割には後半は温暖な日々が続いたため,桜の開花が例年より一週間以上も早く,入学式のころには都内の桜は散ってしまう虞がある。

 小泉首相は今度の国会で民主党の質問に答える形で,現在日本で深刻になりつつある格差について,経済が上向いていることを自己の業績であると誇張した上で,何ら問題とすべき情況ではないという認識を示した。
 しかし,格差は厳然として存在し,ここ15年来だんだんと開いてきている。たとえば,子供を義務教育に上げている親の収入が少ない家庭に対し,地方自治体(「義務教育は,これを無償とする」と決めた憲法第26条があるにもかかわらず,国からはお金は出ない)から支給されている就学補助金は,私の事務所がある足立区では,就学児を持つ全世帯の約半数がこの補助を受けているという。東京都の平均でも1/4の世帯が受けている。
 この制度は自治体が受け持たされているので,各自治体の財政事情で支給対象や基準が異なる。自民党とそれを支持する宗教政党が根を張っている足立区は都内有数の貧乏区であり,この基準は生活保護世帯の収入基準の1.1倍に過ぎず,小学生の子供一人当り年間7万円支給ということである。

 実際に国立大学の学生の親の平均年収は900万円と言われており,就学補助を受けている世帯から大学へ進学するのは経済的にも教育環境的にも非常に厳しいと言わざるを得ない。
 戦後の貧しい時代でも私のように早くに父親を亡くした家庭では,就学費用を捻出するにはたいへんな苦労をした。しかし,当時は高校や大学の学費は非常に安かった上,塾などで特別な学習をしなくてもそこそこの教育を受けることができ,私も国家公務員試験(上級甲:今の第一種)に合格して通産省に就職できた。
 その間,奨学金(後に全額返済した。)を受け,大学はわずか年間9千円の授業料まで免除してもらって卒業した。今や,国立大学は独立法人化によって予算を絞られ,引退してわずかな年金しか収入がない私の倅も,授業料免除はおろか年額50万円以上支払う事態となっている。

 戦後の時代は貧乏でも,本人の才能と努力によって,なんとでもできた時代背景があった。しかし,今や格差は固定化しつつある。
 この情況は中国の現状を見るとよくわかる。中国はもともと都市部と農村部では絶大な格差があった。日本と異なり城砦都市を形成していた中国の都市は,城壁で農村部とその住民を区分けしていた。学問や便利な社会基盤はすべて城の中に存在していた。
 したがって,地方といえども科挙に受かるような優秀な人材は地方都市にしか住んでいなかったし,受験のための学習環境もそこでしか得られなかった。
 中国は明清時代に拡がった国土と増大した人口を管理するために多くの人材を科挙を通して地方都市から中央に吸い上げ続けた。その結果,地方の行政を担う人材は農村に残った優秀な人々を地方都市に吸収することで補給され,膨大な農村地区には平均的に見て劣る人々が取り残される結果となった。
 すなわち中国では農村人=能力が劣る人,ということが固定化してしまっている。これは不満が一杯溜っていた農民兵を基盤とした毛澤東の第八路軍でも解決できなかった。いまでも中国では農村から大都市への自由な移住は許可されていない。都市戸籍制度がこれを守っている。共産主義政権が格差の存在を是認しているのだ。

 日本では,住居の自由も憲法が保障しているが,実際に足立区を脱出して民度が高い東京都西側に転居するのは,足立区で就学補助を受けている世帯にとっては,仕事の面だけでなく費用の面でも不可能である。
 すなわち,中国の現状と同じような地域による格差の固定化が進んでいる。実際足立区より北に隣接する草加市のほうがはるかに民度が高いと思われる節がある。
 私がいま参加している草加市中央公民館で開催されている中国語教室の参加者たちも,足立区民は一人二人しかいない。人口64万人の足立区の中心駅である北千住から草加までは,急行・準急で10分であるにも拘らず,同じく20分以上かかる面積が少し広い人口24万人の春日部市からの参加者のほうが圧倒的に多い。
 都内にある中国語教室のほうがよいから,通わないという反論があるかもしれないが,この教室の費用は通常の各種学校や講習会の半分以下である。要は下の階層に属する人が多い足立区には学習希望者がいないということである。

 さて,いったん格差が固定化した社会とはどのようなものであろうか。
 米国における丸太小屋神話はすでに崩壊してしまった。下の階層に属している人々は足立区民と同じく非常に保守的になることで,自分の生活を守ろうとする。米国のCristian new rightである。
 小泉や阿部などのように日本のnew rightの風に上手く乗っかった人物は,自分自身は上の階層にいるにも拘らず,下の階層の味方のような振りをして,極めて危うい政治運営をしている。彼らの言う改革は何ら改革ではなく,切捨てでしかないのだが,足立区民を初めとする多くの人々がそれに酔ってしまうのは,格差が下の層では北朝鮮並みの政権礼賛教育に馴らされてしまっていて,その本質を見抜く力を持っていないのである。

 一度根付いた格差社会は,中国革命をもってしても変えることはできなかった。革命の理想は単なる共産党内の権力闘争に化けてしまった。その極端な例が,北朝鮮の金王朝である。
 かつての日本は,幕藩体制下で経済格差はあっても能力格差は少なかった。しかし,今は日本全国が一つの藩であるから,その内部に生じた格差は容易には解消できないだろう。

2006年4月9日 追加

 昨年厚生労働省の外郭団体「こども未来財団」が家庭の経済状況について実施した意識調査の結果をまとめたものが発表された。
 それによると,所得が高い人ほど子どもに高い学歴を期待して,教育費に投資をしている情況が浮き彫りにされた。大学以上への進学を期待している親の割合は年収200万未満では38%,同1,000万以上では89%となっており,経済格差が教育格差を固定化する様相が見えている。


2006年5月26日 愛国心の義務化

 この国でいちばん愛国心がない人,それは小泉とそれを取り巻いて自分の権益を増やそうと考えている,自民党や宗教政党と役人だ。
 この連中が,愛国心教育を強制しようと目論んで,教育基本法を変えようとしている。すでに,埼玉県など多くの小学校で政権の方針を先取りして,小学校6年の成績に児童に愛国心があるかないかの評価を付けている。中学受験を控えた子供や親たちは,自分に不利な評価を怖れて,今の東京都知事のような形だけの愛国心を装うであろう。
 自民党と宗教政党は念願の憲法改訂の血祭りとして,教育基本法を改訂しようとしている。次は憲法でも愛国心を持つことを義務化しようとしているのだ。
 まるで義務化されている共産主義教育で愛国心を鼓舞し,反日教育により国民の思考能力奪って,政権の維持を謀っている日本の周辺にある国々のように日本を変えようというのである。そのような企みを持つ人間がなぜ愛国心を持っていると見なせるのだ。彼らの要求は,国民が彼らを国と等価な存在として愛せ,ということである。国を個人や特定のその団体とすり替えているのだ。

 この国では対象としての個人や機構では,愛国心の行き着く先は天皇陛下である。それは,現行憲法の構造でもそうなっている。国家の象徴を愛さない人は愛国心がないと見なす,というのは当然の論理の帰結である。
 では,小泉や今の東京都知事は天皇陛下のご心情をどう捉えているのであろうか。もし,天皇陛下が現在の靖国神社を詣でたら,中国や韓国とは違い,戦争相手だった米国からも激しい反発が来る可能性が大である。さらに天皇陛下のお心にしても,戦争を始めた責任者に対し拝礼する気はしないであろう。
 参拝に行きたくても行けないような状況に天皇陛下を追い込んでいる連中は,不敬なだけではなく天皇陛下のお考えに干渉しているだけでも,愛国心がないという結論が,導き出されるのではないか。彼らは天皇陛下を愛してはおらず,ただ自分の権力の隠れ蓑に使おうとしているだけである。

 国家の品格という本が売れている。山岳作家新田次郎の息子の数学者が書いた本で,読みやすいことは確かである。著者は市場原理主義を批判し,武士道をもってこれと対立する国家の指導原理と主張している。
 たしかに日本人に武士道の精神がまだあれば,愛国心などは強制しなくても自動的に発露されるであろう。
 でも実際に,いま品格が疑われない国家が世界のどこかにあるとすれば,筆者はぜひ住みたいものである。したがって,彼の言うことには一理あるが,役人や政治家および多くの企業家が腐れきった日本では,もはや実現不可能であろう。権力もなく真面目に働いて,老後の年金が生活保護にも及ばない人々が,じつは武士道精神を今だに保存しているのだ。
 かれらこそが,「武士は喰わねど高楊枝。」とばかり,つましく生きている。

 経済を米国や中国並に弱肉強食化してしまい,門地,病気や事故など本人の責任によらずに,競争に負けるどころか参加することすらできない多くの人々はどうすればよいのだ。いま儲かっている大企業の従業員や楽な役人に全員がなれるわけではない
 米国や中国・ロシアのような広い国土を持つ国では,弱者や敗者は辺境の地に移り住むことで,その生活を全うすることができる。事実日本でも,人口がさほど多くない時代にはそれが可能であった。しかし今のように中央政府の税金徴収(国民年金や国民健康保険も税金)や許認可が行き届くと,大都会の橋の下くらいしか逃げ込む場所がない

 安部は総理になりたいために,急に弱者保護などというお題目を唱えているが,実際に実行するにはどうすればよいかという展望すら持っていない。
 一方で改革という切捨て政治を強行して,もう一方で弱者救済などは,論理的矛盾もはなはだしいので,どうせ総理になったら,小泉が田中真紀子を切捨てて中国外交を潰した例よろしく,誰かを切捨てて弱者保護の選挙用文句は忘れ去るであろう。

2006年6月19日 追加

 時の政権がrobotのように言うことを聞く国民を作ろうと考えて実施して来た,愛国心とそれに伴う諸施策は,君が代斉唱の義務化や国旗掲揚への敬礼という姿ですでに,各地方で先取りされている。
 埼玉県の戸田市では市立小中学校の卒業式や入学式で,君が代斉唱の際に起立しなかった来賓を調査するそうである。すでに生徒や保護者・教員には強力に圧力をかけて,時の政権への忠誠を天皇陛下の名の下に誓わせるということは全国的に滲透している。
 これでは足りずに,すべての国民に強制する手始めともなるrobot化が進みつつあることを,この調査をするという行為は表している。

 すでに,何度も述べたように,日本を北朝鮮や中国のように仕立て上げて,何が面白いのであろうか。政権を握っている連中は,これらの国と同じように自分を雲の上の人物に置きたいのであろう。しかし,これはいまの中国人のようなこすっからい人間を大量に育てることにしかならない。しかしこの結果は30年以上経って,日本からNovel賞の受賞者が出なくなって初めて分かるのであろう。印度からは何人か出ているが,中国からはNovel賞受賞者は出ていない理由は何かということが理解できていない。 


2006年7月30日 頭脳流出

 先週Finlandが新世紀を記念して,Novel賞がcoverしていない四つの範囲の科学技術者を表彰するために創設したMillennium賞の第2回目の受賞者となったUCSBの中村修二教授の講演を聴くことになった。彼の大学時代の級友がお膳立てしたもので,同賞の受賞記念講演としては初めてのものである。私はこの級友と知り合いなので出席したのである。
 ちなみに同賞の第1回目の受賞者は,World Wide Webの発明者でそのConsortiumの主催者かつSouthampton ECSのTim Berners-Lee教授である。英国はすでにかれにknightの爵位を与えているが,中村教授は文化勲章をまだ授章していない。

 中村教授には,米国から上海に飛ぶ途中の忙しいさなかに,日本に1日よけいに滞在して安い講演料で講演していただいて申し訳ないが,正直いって中村教授の講演は上手くなかった
 聴くほうにたくさん予備知識があるから内容の把握には困らなかったが,1時間半の講演予定のところを1時間ちょっとで突然話を打ち切り,“さあご質問を。”と言われても,新しく訊きたいネタを捜すことができなかった。
 ただ,中村教授の話を聴いたり読んだりしたことがない人もいるであろうから,かれの発言の中で,気が付いたことを何点か指摘してみたい。

 かれは略歴からも分かるように,米国版Novel賞ともいえるBenjamin Franklin賞を2002年に受賞しているNovel賞級の人物である。 かれが世界を驚かす発明をしたにも拘らず,500万円だった年収が2倍に増えただけだったそうである。日本の大学はどこもかれを招聘しようとはしなかった。
 もっとも後者の件に関しては,筆者は日本型の大学運営を経験からよく知っているので,奇異には感じない。二つの問題点があったのである。一つは日本の学会ではかれのことを誰も知らなかった。その原因は,かれのいた日亜化学が論文の外部発表を禁止していたので,もっぱら外国の学会に発表していたので,日本の大学人との学会での交流がなかったことによる。
 もう一つの原因は,かれの講演の拙さに表れた普通の人との関係を持つことの下手さである。これは,和を以って尊しとなすこの国特有の土壌と相容れない。

 筆者もかつて非常勤講師をしていた大学に教授として応募したとき,学科教授会の推薦は全会一致で受けたのだが,小煩い人物を嫌う事務方が激しく反対された経験がある。筆者は中村教授ほど世界的ではなかったので,米国の大学からのお呼びは当然ながらみじんもなかった。
 もっとも後から考えると,筆者はこの超三流私大の教授になっていたら,一生の伴侶が病に倒れたときに自由に仕事を辞めて,残った彼女の人生に寄り添うことができなかったであろう。山のような後悔と大学教授の席とを比べれば,後悔しないほうがはるかにましである。
 世の中は何が幸いするかわからない。彼女の三周忌を迎えて再度中国語の「縁分」という言葉を思い出した。

 話を元に戻して,中村教授はかれの在籍した会社からは青色発光diodeの企業秘密を盗んだとされ,米国で訴えられた。訴えられるだけで高い米国の弁護士費用を負担させられたのではたまらないから,日本で特許料の支払を求めて反訴してからの経緯はマスコミが詳しい。2005年東京高裁の職権和解勧告により6億円で決着した。東京地裁判決の600億円より少ないが,日本特許史上最高額であった。

 これらの事実から中村教授は,“もう日本では科学技術者は奴隷として生きるしか道は残されていない。”と断言する。この点に関しては,長い間下請けとしてアホな大企業の連中に奴隷のようにアゴでこき使われて来た筆者もまったく同感である。
 10年の経験を持つ中村教授が博士号なしでFlorida大に留学したところ,博士取り立ての若者にtechnicianとして扱われた経験からも,博士号を早目に取得してからventure企業を起こさなかった筆者の戦略上の間違いである。
 往々にして戦術が上手な人はlocalな戦には勝つが,戦略を無視しているので大局で負けるのである。筆者も気が付いて博士号取得に乗り出したときには,すでに歳を取りすぎていたし,仕事上も一番博士号を利用できるときに持っていなかった。

 中村教授が会場からの質問に答えた言葉で印象に残ったのは,“日本も再度第二次世界大戦の敗戦時のようにならなければ,再生は不可能だろう。それだけ技術者は奴隷として教育されすぎている。”という絶望の言葉である。
 そんな状態をだまって待ってはいられない。能力と自信がある人は,逸早く学位を取得して日本から逃げだすべきである。


2006年9月28日 英語教育

 多くのバカな日本国民が期待していた通り,安倍が首相になった。安倍の主張は,なんら国家としての展望がない戦前指向の内容である。安倍は戦前の窮屈かつ崩壊へと向かった社会を再現する考えを持ったのか,定見もなく教育基本法の変更に全力で取り組むと,明言した。

 そこで先ず手を付けたのは,臨時国会で教育基本法を学校教育を国家の目的に沿う奴隷を作り易くする形に変えようということである。 戦後占領軍によって戦後の日本の民主化教育の要として発布された現行教育基本法の下でも,文部官僚と戦前指向の自民党は次々と骨抜き政策を実行し,予定通り自分からは何も考えることができない国民を大量に生産することに成功した。
 自分独自の考えを否定された国民が作る国では,世界に向けて発信できる科学技術的な貢献は急速に少なくなり,安倍が目指している教育をすでに施している中国と同じ水準になってしまう。ちなみに中国(台湾は華人が作った別の国家であるから除外)は日本の10倍の人口がいるにもかかわらず,現時点ではNovel賞を受賞した学者はいない。

 安倍の意図は組閣人事に表れている。あの人気取りがすべてであった小泉が任命した前の文部科学大臣の小坂は,“柔軟な児童が英語教育に取り組むのは否定すべきことではない。”(註1)と言っていた。
 一方安倍が教育基本法のために特に任命した伊吹は,“私は(小学校の英語教育を)必修化する必要はまったくないと思う。美しい日本語ができないのに,外国の言葉をやったってダメ。”(註1)と英語教育に否定的というか,戦前の“敵性言語”として英語狩りをした時代の発想を持っている。

 米国のポチでしかなかった小泉が米国べったり路線を採ったため,小坂は英語教育に肯定的だった。では否定的な伊吹を任命した安倍は日本を米国の属国である現状からどうしたいと思っているのであろうか?中国と組んで,美しい日本語を身につけるために古代中国語である漢籍を学べと,とでもいうのなら親中路線を行くしかないのだが。
 台湾や米国だって大人であるから,小泉や安倍が侵略の責任者であるA級戦犯を崇めても,苦々しい顔でいるだけなのだ。米中どちらかに付かずに両方に対抗する,というのはすでに1930年代からの15年戦争で失敗した路線である。

 世の中が薄暗くなって来た戦前や対米戦争中には,完全に米国のものであった野球の用語もすべて漢語化(この時点で美しい日本語とは何かという議論が必要)したのだ。
 美しい日本語の定義であるが,それは本居宣長のように和語でも学べというのであろうか?現在の日本語から,外国語である漢語を完全に排除して何を表現できるか考えて欲しい。
 科学技術はすでに完全に英語で記述される時代になっている。美しい日本語で書かれた論文だけで,Novel賞が貰えるならそれもよかろう。大江健三郎の文学賞だって外国語への翻訳がなされていないかぎり取れなかったのだ。

 結局,安倍が目指している学校教育は,戦前の体育会系教員や軍人が絶対権力を振るった修身の時間の完全復活であり,そのために英語教育などに時間を食われてたのでは困るといういうことであろう。
 しかし,修身で国民を大人しく躾てしまうと,山羊を育てることはできず,みんな羊になってしまう。毛を刈ったり食べる対象(奴隷としてこき使う,と言い換えてもよい)としてはいいが,新天地を求める人材は育たない
 せいぜい,実弟が談合で逮捕され辞職に追い込まれた自民党の金城湯池である福島県の佐藤知事のような人物しか育たないのである。これでは過去数千年も続いて,なおも似た情況で汚職が蔓延している中国の体制と同じである。

 中国では「發財(お金もうけ)」と役人になるということは同義語である。この原則は現在でも生きている。日本の自民党もまったく同じであることを,この福島の事件は示している。
 汚職は体制的なものであり,修身の教育をすればするほどその裏側が見えて来て,子供たちは表裏に別の顔を持つのが得であることを知ってしまう。“援交”はそうして生まれた抑圧教育への子供の反発の一種である。事件となった援交の客には,ありとあらゆる階層や職業のエロオヤジが出てくる。
 本来,共産主義教育の中からは生まれるはずがない商売であるにもかかわらず,中国でのKTV(女性が待っているカラオケ店)の繁茂も,需要と供給の関係であるが,強圧式の詰め込み教育がなされると,解放されたい人はこのような仕儀にはしりやすいのだ。

 本論に戻すと,科学技術は今後すべて英語だけで語られのが世界の趨勢であろう。それに反抗しているのは安倍政権と中国だけになるかもしれない。
 われわれは,政府が直接経営する日本の学校に子弟を上げることも再考しなくてはならない。実際に中学からでは自然な英語の音を身につけるには遅い。それはわれわれが,読めて書けても喋れない英語を学ばされ,結果たいへんな損をした経験からも明らかである。
 親たるものは,子供が日本から気楽に逃げ出せるように英語を身につけさせる義務がある。これぞ,現代の義務教育と言えよう。

註1:2006年9月27日付の朝日新聞の報道より引用


2006年12月26日 星条旗は永遠

 日本を滅亡に導こうとしている戦前指向の政権党はとうとう目論見どおり,教育基本法を国家主義的な内容に変更した。これで,現東京都知事など日本が何で世界に馳せているかをさっぱり理解していない連中は,錦の御旗を得たわけである。
 東京高裁は,早速今日,赤い丸に斜線を入れたブラウスを着て入学式に出席した教員を処分した東京都の行為に対し,正当であるという御用判決を出した。人の良心の自由を奪う判決である。
 簡単に言うと,北朝鮮で将軍様に敬礼しなかったら処罰されるのと同じことが,日本でも行われているのである。

 では,なぜこのように教育を縛るのが,日本の将来を危うくするのかちょっと考えてみる。 それは,このような方向の教育に熱心な現東京都知事が,その著作で外貨を稼いでいるかどうか考えるとすぐ分かる。この一年で日本で2番目によく売れた本は,ハリーポッターの最新作である。すなわちその印税は外国に支払われたのである。現東京都知事は自分の四男を含めて,国外へたいへんな額の都民の税金を湯水のごとく流出させているが,その死んだ弟を含めて,海外から幾ら稼いだか比べてみて欲しい。

 今日本が食えているのは,ひとえに輸出のお蔭である。このことを多くの金融機関の経営者や政治家にはまったく分かっていない。
 輸出しているのは何か。当然ながら中国型の労働力の輸出(単純加工貿易)ではない。日本の技術力を背景にした素材や製品である。海外投資からの利益もあるが,それは所詮昔の英国型の老大国経済でしかなく,現在の日本を食わせていくには不足である。
 この技術を担っているのは,日本人である。というより,日本型の自由な社会環境である。もし,この自由を教育の面から縛ったら,若い人は自由な発想よりも安全な発想を選ぶのは必至である。学校では自由にやるよりお上のお達しの通りに生きた方が有利だと刷り込まれるのだから,当然の帰結である。すなわちそのような怖い体制下で育った現在の中国人のようにせいぜい目の前の金儲けだけに目を向ける人間に成り下がるのだ。
 残念ながら新しい技術は常に自由な考えを持つ人々からしか生まれない。旧陸軍より旧海軍がましだったのは,そこにより自由な考えをできる余裕があったからである。

 角を矯めて牛を殺す,という諺をこの際思い出して欲しい。牛の角があちこち向いて気に入らなくても,それで牛は生きているのであり,それが個性である。すべてを思うようにするとせっかくの金の卵を産むニワトリを失ってしまうのである。じつは,もうすでに政権党の長い間の戦前指向の教育への介入によって,金の卵を産むニワトリの大半は失われている
 日本が技術を産み出せなくなって,というよりそのような人材が流出する時代が来て,国家が滅びるのは,時間の問題であろう。日本語と外国語(英語)の壁がいままでそのような流出を困難にしてきたが,Internetの時代になってその壁は毎年低くなって行っている。
 自信を持って,この馬鹿臭くなりつつある日本から逃げだそう。日の丸を尊重しろという戦前型の訳がわからない管理体制に忠誠を誓わせられるくらいなら,星条旗に忠誠を誓った方が絶対に有利である。

 ということで,本年もおさらばである。


2006年版完