Dr. YIKAIの言いたい放題「日本の世相と中国関係」

2014年版 Copy Right 2014 Dr.YIKAI Kunio

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2014年1月4日 何も要らない
2014年5月21日 色街

2014年1月10日 何も要らない

 旧蝋12月15日に,JR高崎線北本―桶川間に新駅を設置することに対する住民投票が北本市で行われた。結果は反対の意思が大差で確認された。有権者数56,656人中35,322人(投票率62・34%)が年末の忙しい時季に投票に向い,関心の高さを証明した。
 “税金をつぎ込み過ぎ”,“隣の桶川市にも負担してほしい”,“新駅ができても市の活性化は期待できない”,“今さら新駅を造ってもメリットはない”などのと反対理由が多かったそうだ。

 2006年の滋賀県知事選挙の争点ともなった東海道新幹線の栗東新駅は,現嘉田由紀子知事の誕生で2007年に中止となった(注)。この時も地元栗東市当局以外の周辺市と県は多額の費用負担に難色を示し,法廷闘争も起きた。
 周辺住民の声は,新幹線の駅よりも,新快速などの手段で安く頻繁に京阪地方に直結することを,求めたのである。新駅予定地の跡地はGSユアサに電気自動車用電池の工場用地として売却することで,決着が着いた。
 どうということはない,GSユアサとしては手間がかかる地権者との交渉や農地からの地目変更などの手間がないまま,さら地が手に入ったのである。

 すでに開発型の地域発展計画は,日本の総人口の減少と共に無意味になってきている。それを人口が増加していた時代の感覚で外から人を呼び込めば衰退しつつある自分らの街が何とかなるという,他人任せの土建屋的利権意識では将来の自分の街の青図は描けないだろう。


 栗東新駅問題の動きに関しては,京都新聞のまとめが便利である。
http://www.kyoto-np.co.jp/info/special/rittousityou_061012/index.html


2014年5月21日 色街

 4月に中国の中原の地を旅してきた。中原とは夏華族と呼ばれる中華民族が発祥し発展した地であり,4,000年の歴史の根拠となる地である。具体的には黄河の中流域から下流域に属する河南省,山西省などを指す。中原の地は,現在は大連から広東に至る沿岸諸地域と比べ,貧困地帯と言われている。
 旅行した地域の詳しい内容は,養豚家が報告した内容をご覧いただくとして,とくに強調したいのは,北からの遊牧民による侵略を受けつつも,11世紀から13世紀にかけての中国(宋)は,当時の全世界のGDPの半分以上を占めていたという事実である。ところが現在は“GDPがやっと日本を追い抜いたから,中国はすごいんだ”と中国のnet民達がほざいている状況である。

 今回旅行した場所は,洛陽,鄭州,安陽,開封(かいほう:注1)である。洛陽の名前を知らない人はいないと思うが,後の三つの場所は日本人には意外と名が知られてないと思う。しかしこれらの街はすべて中国の八大古都(注2)に数えられている。
 鄭州は中国の交通の十字路となっているところで,少なくとも3,500年前の商(殷)代から都が置かれていた。今でも南北と東西に走る高速鉄道や高速道路,古くは水運(注3)が,河南省の省都で人口約1,000万人のこの街の郊外で交わっている。古来交通の要衝の地である。
 安陽は殷墟がある街で,鄭州から200kmほど北京に寄った河北省との境にある。漢人化した北方異民族の王朝と考えられる隋・唐が成立するまでの五胡十六国時代には,安陽に隣接する河北省邯鄲市臨漳県に跨がって都,鄴(ぎょう)が置かれたので,安陽も八大古都の一つとされている。
 開封(かいほう)は,戦国七雄の魏や唐滅亡後の混乱期の五代十国時代から北宋,女真族の王朝金が都を置いた場所である。

 細かい歴史の話は,専門の書籍や論文に譲るとして,今回,一般の日本人団体観光客がほとんど行かない開封を訪れた最大の理由は,単に養豚家が行きたかったからである。旅行団に参加した方々には養豚家の趣味に付合わせたことになるが,開封の旧市街には,北宋代の繁栄ぶりがいくつかのtheme parkで再現してある。
 現実にここで遊ぶために中国全土から観光客が来るのであるから,Disneyの完全に架空の街のtheme parkである鼠の国と原理的には何も変わらないと思う。

 北宋代の開封は話のネタが尽きない。武侠が次々と活躍する水滸伝の舞台は梁山泊(山東省済寧市 梁山県)であるが,実際には話の一部は北宋末期の開封でも展開する。
 さらに,清廉潔白な官員であった開封府尹(注4)の包丞(包公,包青天とも言う)の話は,大岡越前守と水戸黄門を合せたような語り物であり,台湾や大陸中国でTV drama化したため,ほとんどの中国人が知っている。大岡裁きで有名な『しばられ地蔵』は,この包公の話を江戸時代に翻案(注5)したものである。その他多くの包公の話が大岡裁きに収録されている。

 江戸時代は宋代からは今ほど時間が経っていなかったので,水滸伝や包公の話は,今よりもずーっと江戸の町人に親しまれていたと思われる
 江戸東京博物館に行くと,火消しが着る刺し子の裏模様に,水滸伝の英雄が描かれているのが展示されている。彫り物や浮世絵でも,水滸伝で有名な浪裏白跳張順(注5)などが粋なものとして好まれていた。

 この東京(とうけい)開封府は北宋の首都であり,人口100万人を有したと言われている。しかも24時間眠らない街であった。その理由は,奈良や京都が手本とした唐の都長安とは,街の造りが異なっていたからである。
 長安は,街を東西南北に走る道で細分し,各区画を「坊」と名付けていた。坊もやはり長安を囲む城壁と同じような高い壁で仕切られていて,夜中は坊の中でしか移動ができなかった。各坊は,たとえば寺とか商店とか同種の建物が集まっていて,繁華街はあっても,夜になると他の地域からは途絶されてしまっていた。
 開封は市街地を坊で区切ることはなく,中央に皇宮がある内城とその10倍程度の面積を囲った新城から成っていた。もちろん内城の内側にも商店があり,夜になっても賑わいが途絶えることはなかった。今もほぼ完全な姿で残っている開封の城壁は,ほぼ当時の内城に相当する部分を囲ったもので,清代に整備されたものである。明代よりも古いものはすべて黄河の洪水で埋まってしまっている。
 ついでであるが,平の清盛が日宋貿易で多額の富を得た理由も,南宋の繁栄に由来する。

 今回の旅行でも,皇宮の南正門である宣徳楼から旧城の朱雀門を抜け,新城の南薫門に至る幅200歩の坊巷御街を一部分再現した宋都御街を散策した。
 そこには,北宋代の妓楼「馨樓」が再現されていた。北宋の色街は江戸時代の岡場所のように開封の至る所にあったらしいが,やはりこの坊巷御街に面した場所にある妓楼が数も多く,且つ質も高かったようである。
 水滸伝には,第八代徽宋皇帝お気に入りの妓女李師師に,梁山泊の英雄浪子燕青が近づいて,徽宋との面談を依頼する場面がある。江戸時代の高尾太夫(注7)も顔負けの高級妓女である。
 写真にある妓女の衣裳は当然絹物で,その模様は,汴繍(汴は“べん”と読み,開封の別名)という名で知られた刺繍で描かれている。

北宋代の妓女の服装

 養豚家は決して売春を肯定する訳ではないし,このような高級妓女の影には,性被害に遭った奴隷のような女性がたくさんいることも事実である。
 日本の隣にある某K国が,国を挙げて従軍慰安婦を国際問題にしようとしているが,この従軍慰安婦たちは,兵隊たちからまともな対価をもらって春をひさいだ商売人で,奴隷ではない。当時はK国は日本の一部だったから,少なくともK国語を話す兵隊も慰安婦を利用できた。もちろん内地から出稼ぎに行った日本語しか話せない慰安婦もいた。
 日本で売春防止法が施行されたのは,養豚家が高校生になった1957年であるから,軍隊を相手に商売する女性がいたのも当然であり,当時は合法であった。これは,K国の兵隊がVietnum戦争で,現地の女性をベトコンだという理由で強姦したのとはまったく異なる。
 さらに,従軍慰安婦に関しては軍が管理していたため,日本はおろかこのK国や社会主義のC国に今でもある闇の売春組織のように,女性から上がりを没収するようなこともしていない。一方では,現在世界にたくさんの売春婦を輸出している国は,このK国ではないかと噂されている。その数は2011年の推計で8万人(内日本に2万人)という説がある。

 話は飛んでしまったが,煎じ詰めると,経済が繁栄すると売春も種類が増えて,北宋の馨樓のような高級な所から,安価に済ませる所まで商売として発生する。これは,人類が最初に始めた商売であり,どんなに教育をしようが法律で取り締まろうが,決して根絶やしにすることはできない。国民が豊かになれば,身体を売る女性がいなくなるかというと,決してそんなことはない。
 好んでこの世界に入る女性はめったにいないが,やはりこの世界に飛び込む理由はある。それは,本人や親の貧困や借金,恋人や夫からの強制・騙し,強姦被害からの自暴自棄,一攫千金の夢など,net上の書込みを見る限り,この世のありとあらゆる不幸や思い込みが,女性がこの商売に身を沈める原因となっている

 ということで,GDPが日本を越えた中国では,この商売が大繁盛している。あまりに酷いので,習近平政権は売春の取締を強化することにした。今年の2月に先ず槍玉に上がったのは,性都と呼ばれる広東の東莞(とうかん)である。東莞市は外国を含む多くの企業の工場が集まっているので,多くの内陸出身者の出稼ぎ先になっている。
 約1,000人が摘発され,夜の繁華街は火が消えたようになってしまったそうである。5月には隣の深圳(しんせん)市も槍玉に挙げられ,同じようなことになっている。
 東莞市で検挙された千人は,登録人口の180万人(出稼ぎなどの流入人口を入れると2012年で830万人)から見れば微々たる人数だが,この摘発で市の経済は,年間500億元(約8,000億円)の打撃を受けたそうである。一人の売春婦がいるとそれに関連する消費支出は,その100倍の人数を養うとさえ言われている。
 東莞市の性都で喰っている人口は5,60万人と言われている。100倍どころではない。

 江戸時代の吉原も,日に千両の金が動くと言われた。江戸幕府としては,そこからの運上金(税収)は欠かすことが出来ない財源であったので,厳しく取り締まりながらも維持していた。岡場所と言われた非合法な色街からも,裏からは多額の金が役人の手に渡っていたことは,想像に難くない。
 しかし岡場所は,即物的であまり文化を生まない。美女の錦絵も,吉原の花魁ならではの作品である。

 そこで話はまたまた,売春防止法以後の日本に飛び火する。
 明治政府も芸娼妓解放令により,江戸時代の吉原などの公娼を廃止しようとしたが,根が人類始まって以来の商売であるので,実効にはほど遠かった。

 売春防止法により,やっと占領軍によって赤い線で囲まれた売春黙認地域は廃止された。しかし,江戸時代から続く吉原だけでなく岡場所の跡でも,トルコ風呂の名の下に,個室浴場と湯女という形での風俗営業が継続した。ただし,新規の開業は認められなかったので,旧赤線内で権利の譲渡という形で営業権が売買され,現在まで60年近く存続している。なお,そのおおよその営業形態は下記の枠内を参照してほしい。
 1984年にトルコ人留学生からトルコという名称に文句が付き,泡を使うから“ソープランド”,略してソープと名が変わった。ソープランドは江戸時代から続く正統な赤線を襲っているので,行為自体だけでなくその前後にもいろいろと行事があり,費用は高くつくが客の満足度は高いし,女性の方も比較的安全である

ソープランド(旧称:トルコ風呂)の概要
 ソープ嬢は,建前上売春行為をしてはいけないことになっていて,個室の入り口には中を覗いて監視できるように大きめの窓が付いている。もちろん客は何かを期待して来るのであるから,余程のことがないかぎり,ソープ嬢は客からの期待を拒まない。期待の対価は,客と女性の直接取引である。
 覗き窓は,内側からバスタオルを掛けて外から見えなくする。お店はトルコ嬢からタオル代と称してピンはねをする。彼女達はお店に雇われているのではなく,江戸時代の三助と同じく,お風呂の中を借りての個人営業というのが,管理売春にならない建前である。
 個室には,マッサージをするために客が寝そべる台がある。これはhotelのbedには遥かに及ばず,昔の夜汽車の3段寝台の上段だと思えばよい。
 この上で期待した行為をしてもよいが,ソープランドには湯船があり,広い洗い場も付いている。洗い場に普通のbed大の空気matを置き,客はmatの上に寝て,ソープ嬢に体中に泡を塗ったくってもらい,体をくまなく洗ってもらう。嬢は自分の身体もタワシにすることもある。洗う途中や終わった後,mat上で行為をすることもできる。

 どこの世界でも,何時の世でもより安価にお手軽に欲望を満たしたいという輩は多いので,そのような長屋の八っあんや熊さんのために,ソープよりもお手軽なファッションヘルス(略称ヘルス)という,一種のマッサージ店が赤線外の地域で営業を始めた。すなわち岡場所である。
 この手の店では身体の筋肉だけではなく,むしろ筋肉がない部分もマッサージしてもらえるのが通常のマッサージ店と異なる。それ以上の快楽を求めるなら,男にはその場限りの恋愛を成り立たせる会話力と財力が求められていた。
 しかし,この方式は営業店舗があるので,取締る側も容易に違法行為(管理売春)を摘発できる。あくまでもヘルス嬢と客との個人的な瞬時恋愛と言い張っても,摘発を受ける危険は大きい。

 一方,江戸の昔から男女二人が逢い引きを楽しむ場所も繁昌していた。出会茶屋である。今でもラブホテルという名称で全国至る所に繁茂している。山の手線鶯谷駅の東側などが有名である。
 すると江戸時代もあったが,男が一人でラブホテルに行き,そこから現地調達するという方式が生れた。調達のための情報源は,スポーツ新聞の広告や電話boxの中に大量に張られた名刺大のチラシであった。出張ヘルス(デリバリィヘルス,通称デリヘル)と呼ばれる方式である。
 携帯電話の普及で,この後援助交際とか出会い系とかいろいろな方法が生れ,高価な泡風呂(ソープ)は敬遠されるようになった。

 さて,中国旅行からどんどんと話が飛んでしまったが,次は養豚家の陋屋がある土浦の話である。
 土浦という街は,江戸時代は9万5千石の土屋氏の城下町ではあったが,江戸への水運で栄えた交易都市であった。陸路土浦に集まった物資を船積みして,霞ヶ浦から利根川を遡り,運河を経由して江戸川を下って江戸の街に荷揚げするのである。大勢の商人,荷運び人夫,馬方,船頭などが集まり,当然ながら色街が形成された
 色街で遊ぶ人夫から商人や土屋家の家臣などまで,それぞれに見合った店があったのは,何時の時代でも同じである。もちろん色街で遊ぶ人々は多くの周辺の商売を繁昌させた。茶の湯も盛んになり,和菓子屋も数多くあった。

 明治になり,鉄道の貨物運輸が霞ヶ浦の水運に取って代ると,それまでの交易都市土浦も衰退するはずであった。しかし,霞ヶ浦に海軍が航空隊を置いたため,今度は土浦は軍事都市に変貌を遂げ,海軍の航空士官や高官の遊び場所としてやはり料亭や色街は生き続けた。夜ともなれば,駅から土浦城址一帯の繁華街は人で一杯となった。
 戦後は,美浦村に出来た競馬のトレーニングセンタのお蔭で,トルコ街に変貌した色街は,北関東随一と言われる規模を維持し続けた。ところが,さすがの色街も客のソープ離れが進んで,今はほとんど駐車場と化した空き地になってしまっている。同時にモータリゼーションが進み,かつての繁華街に足を向ける人もほとんどいなくなった。全国どこにでもある,駅前過疎化である。
 色街と共に発展した美食などの文化は,数軒を除いてほぼ完全に消滅している。

 ところが駅周辺では異変が起っている。それは,異常な軒数のビジホ(Business hotel)の乱立である。養豚家が隠居所を建てた四半世紀以上前は,駅の東側には普通のhotelが1軒しかなかった。観光用の京成ホテルも潰れてしまった。
 なのに今や,ビジホは駅東口から歩いて10分以内に10軒近くある。大した観光も産業もない土浦にビジホがこんなに増えて,客がいるのであろうか?工場街は水戸寄りの次の駅の神立にあるのだ。
 でも,養豚家が週末の夜に電車から降りて傍を通ると,どこも繁昌しているのが見て取れる。ビジホが週末に繁昌?観光地でもないのに……。
 その秘密は,ずばりラブホテル代りなのだ。そんなに恋を語る男女がいるか?もちろんデリ嬢を呼ぶために使うのである。世の中,需要はあるので,ソープが立ち行かなくなっても代りのsystemはちゃんと出来てしまう。駅前なので酔っぱらっても電車やバスで帰ることができる。運転代行を呼ぶ必要がないのだ。
 かくしてこのデリヘルの分野でも,土浦は北関東一を維持しているのだが,これは色街とは言えない。警察の手入れがあって客がいなくなっても,広東の東莞や深圳のように,土浦の経済に深刻な打撃にすらならないだろう。
 色街は即物的な行為だけで成り立っているのではない。それを含む文化があって始めて成り立っていたし,そのような退廃的な状態から文芸や芸事も生れてきた。吉原がない浮世絵や錦絵は成り立たなかっただろう。
 健全化した街には,ゴミは住み着けないが,開封のような絢爛たる文化の発展も望めないのかもしれない。

 養豚家?嫁さんが生きていた時から,その方面の欲望は失せてしまっているので,こんなに便利な街に住んではいるけど,一度もこれらのビジホやデリ嬢を利用したことはない。もし,ソープが全盛のころに定住していたら,離婚されてしまう危険を犯してでも,毎晩雰囲気を味わいに出かけていたかもしれない。

注1
 開封は,地名としては“かいほう”と読む。広辞苑や大辞林などすべて“かいほう”という読みが振ってある。“かいふう”と読むと,日本語では手紙を開ける意味になってしまう。
 自分では中国通と思っている人の中にも“かいふう”と誤読する人がいる。するとその書かれた内容そのものが信用できなくなってしまう。

注2
 中国では,以前から西安(鎬京/長安),洛陽,北京(大都),南京(建業/建康)の四つを古都と呼び習わしていた。その後,歴史学者達が1920年に開封を5番目の古都に認定した。1930年には6番目の古都として杭州(臨安)が挙げられた。最近は,中国古都学会が1988年に安陽,2004年に鄭州と古都をだんだんと増やし,現在は八大古都と言われている。さらに,山西省の炭坑と雲崗石窟の街大同を9番目に加えようという動きもある。

注3
 黄河は暴れ河ではあるが東西の水運にも使われた。南北の水運は,隋の煬帝が作らせ,北京と杭州を結ぶ京杭大運河となった水路汴水が黄河と交わっている。

注4
 開封府尹(ふいん)は,日本で言えば江戸町奉行に相当するが,南北交代ではない。中央政府の三品の高官であると同時に,首都の行政・司法すべての責任を負っていた。

注5
 元代にはすでに巷の語り物として流布されていた包青天の話が,明代に『包公案』にまとめられて刊行された。その巻八の4番目に『石碑』という話がある。ここでは,包公が公開の場所で,(地蔵ではなく)石碑を打たせて犯人をあぶり出している。

注6
 歌川國芳の浮世絵『通俗水滸伝豪傑百八人』が有名である。

注7
 高尾太夫は,江戸中期に廃業した三浦屋の看板遊女。歴代の高尾太夫の中には,仙台の伊達騒動にも出て来たり,落語で有名な紺屋高尾,大名に落籍された者もいる。


2014年版 完