Dr. YIKAI の言いたい放題「技術教育」

2011年版 Copy Right 2011 Dr.YIKAI Kunio

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2011年4月12日 原発事故を惹き起こした既得権
2011年5月14日 多様性こそが進歩の要

2011年4月12日 原発事故を惹き起こした既得権

 今回の東京都知事選挙で,予想通り復古主義者石原慎太郎が都知事に当選した。この男はすでに78歳で,世界の独裁者達ですら末期(註1)となった年齢を過ぎているにもかかわらず,この都市経営というものをぜんぜん理解していない人物に,都民の半数近くの43%の有権者が投票した。前回が51%だったから,すでに圧倒的な支持ではなくなっていることに留意したい。
 石原裕次郎のファンである年寄りのおバチャンたちがこのミイラ寸前の男に投票するから,時代遅れの人物が都民の税金を湯水のごとく浪費しまくるのである。石原都知事は新銀行東京やOlympicの誘致活動に巨額の税金を突っ込んだ。しかも,ことごとく失敗したにも拘らず,一言も反省の弁すらない。こんなことは,企業社会では自民党と結びついて,利権の巣になってしまっている東京電力位しか,し出かさない。

 世間ではこの男を右翼政治家だと看做しているようだが,かれは残念ながら純正の右翼思想を有してはいない。思いつきの発言を繰り返す単なる反動・復古・機会主義者にすぎない。もちろん,街宣車を繰り出す右翼団体も単にそれを職業としているだけで,暴力団と紙一重の人物たちの集団に過ぎない。また,日本社会の右傾化は残念ながらこのようなきちんとした理論を有していない単なる流行としての保守主義が嵩じたものである。
 肝心な事は右翼的な考えと保守主義は基本的に異なるものだということである。自分達が世界の最左翼であることを任じていたはずの中国共産党は,現在類い稀な保守主義で運営されている。共産主義は一旦権力を握ると他のどのような政治思想を持つ政権よりも保守主義が強く表に出てくる。(註2)

 本来,日本人は非常に保守的な民族である。それは限られた範囲の島で生活し,台風・洪水・山崩・旱魃・噴火・地震・津波などの自然災害に囲まれて,自分たちの生活をまっとうするために自然と身に付いた智恵とも言える。
 保守主義とは,基本的には現状維持を望むことであり,既得権を頑守することが善であるという考えである。一方,社会の生産力はそれまでの常識や既得権を乗り越えることで大きく発展を遂げてきたのも事実であり,たとえ一時的に既得権を守る側が勝利したとしても,その保守階層あるいは国自体が自然と自滅の一途を辿って消滅してしまうのが,歴史が示す淘汰の教訓である。

 保守的な雰囲気は,現在の生活がまあまあ満足がいく程度だと,国民全体に広汎に拡がる。原発事故はそのような“なあなあ”な情況の下で起きるべくして起きた
 しかし,その損害補償は一電力会社を糾弾してもなにも解決しない。たとえば,福島県川俣町の住民は,避難指示区域外にあるにも拘らず,原発事故で被害を受けたと主張し,すでに一戸当り500万円+一人当り30万円の補償金を要求している。たとえは悪いがこれは便乗値上げと同じで,もしかすると火事場泥棒のほうがましかもしれない。
 もしこの請求通りに東京電力が補償金を払ったら,彼等が過去長い間支払った電気代をはるかに越える額になる。当然ながら電力会社は倒産し,電気の供給は完全に停止する。では,国が代りに満額の国民基礎年金6年半分に匹敵するこの金額を支払うとすれば,まったく別の要因で辛い目に遭ったと主張する国民にも政府に補償を請求する権利が生じてくる。お金に目が眩んで原発の設置を認めた(前福島県知事の佐藤栄佐久以外の)過去の福島県知事や県議会議員は,この住民たちが選挙で選んだのではないだろうか。
 このような既得権丸出しの保守的な日本人は,日本国全体が倒産するとこには完全に無頓着だ。だから,小澤一郎が打ち出した日本のすべての既得権を見直す改革も,既成マスゴミや官庁の役人の言い分に同調して,人間ごと葬り去ろうとした。この既得権を守ろうとする動きについては,30年来日本の既得権構造を見てきたオランダ人の元東京特派員が英語で書いた著書『だれが小沢一郎を殺すのか』に詳しい(註3)。
 既得権者の最大の間違いは,崖に向かって走っている観光バスの向きを変えなくてはならないのに,“この景色がもっと見たいから,もうちょっとそのまま走って!”と言う旅行客のような行動をしていることなのだ。

 さて今般の大津波については,大地震発生前にすでに多くの先進的な技術者や学者から,近々発生する可能性がある津波の危険性の評価が出されていた(註4)にも拘らず,原発はそれを無視して建設され,その後の施設の補強もなされなかった。
 たとえば,建設時に貞観三陸地震(869年)や明治の三陸津波の例を持ち出して,その対策が必要と提案した技術者に向かって,当時の原発建設を指揮していた幹部の一人が“そんな千年に一回の地震に備える必要はない”と一蹴したという。あるいは,2001年にはすでに発表されていた貞観地震津波の研究結果を重要視していれば,原発の津波対策は十分に間に合ったと思われる。
 さらに,産業技術総合研究所の学者が仙台平野を2004年からboring調査した結果,喫緊に大津波が発生する可能性があることを,政府の地震調査研究推進本部を通じて,今回の地震のちょっと前に,大きな被害が予想される自治体に貞観地震再来の危険性を説明したそうだ。しかし,自治体の防災担当者は“そんな長い間隔の地震は,対策を練っても仕方がない”と,鈍い反応だったという。

 これらは,学者や技術者の本当に役に立つ革新的な研究成果とそれによる提言が,現状維持と既得権を大切にする保守的な企業幹部や役人に棄却されたことを,奇しくも物語っている。
 役人達も学会の権威者も政治家も,電力会社がそのような後ろ向きの防護施設に投資して,税収が下がったり,回ってくる利権が減るのを恐れた結果,すぐに危険が見えないから,対処を先延ばししたのであろう。

 ここからは私怨に属する内容であるが,趣味の世界にもこのような保守主義が横行している。いや,趣味の世界だからこそ保守主義は遠慮なく生の形で現れて来るのかもしれない。
 養豚家は以前,埼玉で開催されていた中国語の学習会で,男の妬みから当時の学習会の会長(会員の互選)にいろいろと叩かれた。ちょうどその時期に自分の母親の臨終を迎えたこともあり,その会から消え去ったことがある。その後1年強にわたり会のHPの更新だけは手伝っていたが,この会長の妬みはますます酷くなったので,終に袂を分かった
 土浦に越して来て,やはりどこかで中国語の学習をしている仲間との繋がりを持ちたいと考え,net上を検索したら“つくば日中協会”なる任意団体が,公民館を借りて5 levelの学習会を開催しているということを発見した。まだ,地震が来る前であったが,さっそく連絡して最上級の応用コースを試験聴講した。
 その後地震で講師をしている筑波大の中国人留学生が帰国してしまっていると思い,会長に新年度の開始時期を尋ねると,“あなたの水準が高いので,遠慮願いたい”という,養豚家が半分想定していた拒絶の答が帰って来た。

 これぞ,学習の世界でも既得権を守ろうとする姿勢の現れである。ここの会長(男性)やオヤジたちは,たしかに私よりも中国語の水準は低い,そのためそれまで若い女性やオバサンたちの前で知ったかぶりをしていた自分たちの化けの皮が剥がれて,その僅かな権益が養豚家によって侵されてしまうのを懸念したのだ。オヤジ達のこの種の行動は娘がすでに体験している。
 養豚家が五つあるcourseの下の方のclassに参加を申し込んだのなら,それは当然のことながら“上のcourseにどうぞ”,という誘導は肯定できる。しかし一番上のclassであるから,自分よりも実力がある人物の参加を拒否するというのは,自分たちの実力向上を放棄する行為である。養豚家も恥ずかしながらlistning(中国語では「聴力」という)はからっきしだめである。
 そこで試聴した授業は,TVのnewsの音声を聴き取るものであった。もちろん録音は“しゃべり”が速すぎて,養豚家を含めてさっぱり聴き取れなかった。養豚家はこの意味で学習会に参加する価値があると思っていたのである。実際に養豚家は台湾のnet TVを時々視聴しているが,画面に出る字幕(註5)と画面でようやく意味を掴んでいるに過ぎない。食事中など流し聴きにしていると,時々知っている単語が認識できるだけで,あとは頭の中を中国語が通り抜けて行く水準だ。

 以上のように単なる保守的な既得権の自己防衛は,結局自分自身の向上を否定することになる。原発事故の被災者だと大声で騒いで500万円をふんだくっても,それは所詮一時金でしかない。日本経済の発展には寄与しないのだ。それくらいなら,その資金で筑波大の渡邉信教授ら発見した効率良く原油を生産する藻の試験栽培でもしたほうがはるかによいと思う。もちろんそれでも地元にもある程度のお金は落ちる。そのような発想が湧かずに,ただただ補償金を手に入れることだけを主張していると,自己向上の努力の芽を摘んでしまうであろう。
 その補償金はどこからか自然と湧いて出て来る訳ではない,日本中の人が分担して払うことになるだけのことであるから,経済はその分疲弊して,かれら既得権を振り回した連中の将来も含めて共倒れになるのは確実である。

 もちろん小さな既得権(オバサン達に“ええ格好しい”をしたい)を死守するつくばのオヤジ達も,GDP向上ならぬ中国語の実力向上という成長は望めない
 養豚家?少しも落ち込まずに,またまたnetで台湾のTVを見て自己研鑽し,Skypeで海の向うの台湾人と話すことで中国語の「聴力」を上げようと思う。

註1:独裁者の年齢(死亡・失脚・引退時)
 Fidel Castro(Cuba):82(権力一部譲渡),Mubārak(Egypt):83(失脚),毛澤東(中国):82(引退せずに死去),蒋介石(台湾):87(引退せずに死去)

註2:
 右翼の思想家と単なる機会主義や煽動主義者との間はなかなか見分けが困難である。しかし,それらは過去の歴史上の事実に対する認識方法で分けることができる。たとえば,アジア遊牧民史の研究家宮脇淳子(読みやすい著書として『世界史のなかの満州帝国と日本』がある)は,その主張は典型的な右翼思想家であるが,研究対象に関する洞察は一方に偏らずに正確に事実を見極めようという態度に終始している。ここが普通の単なる保守主義者と異なるのだ。
 もちろん彼女が出した結論は,彼女の洞察全体からは論理的に引き出せないにも拘らず,一挙に右翼的結論に牽強付会するところに,養豚家は他の右翼思想家に対するのと同様の違和感を感じる。
 一方,左翼の思想家や単なる保守主義者は,自分に都合がよい歴史的事実だけを引っ張り出しその上に妄想をでっちあげて歴史として正当化し,自分が出したい結論に弁証法的に結びつけようとする。これでは客観的事実を積み上げた理論武装に於て右翼思想家にはとうてい敵わない。
 もちろん今の中国共産党も「實事求是」と言っているはずの毛澤東以来,自分に都合が良いように歴史的事実をねじ曲げていることは,だれにでも理解できよう。このまま共産党政権が続けば,多分,あと50年もしない内に,3千万人に上ると推定されている文化大革命の犠牲者は,すべて1945年以前の日本の侵略軍に殺された,と教科書が書き直されるであろう。いまでもすでに,1949年までの国共内戦時の犠牲者および蒋介石の北伐時の犠牲者もすべて日本軍による殺戮と書き換えられたTV dramaが幾つも放映されている。

註3:
 オランダ人で今は大学教授のKarel van Wolferenは,日本での特派員生活(元日本外国特派員協会会長)を通じて,30年も日本の既得権構造を研究してきた。英語で書いた著書『The Character Assassination of Ozawa Ichiro』の日本語訳は角川書店から2011年3月に刊行された。

註4:
 奇しくも2010年12月に河田恵昭著『津波災害』が岩波新書から上梓された。出版時から帯には「必ず、来る!」と大書されている。ここには,津波は逃げ方で生死が別れるとも明記されている。学者は夙に津波災害を警告していたのだ。津波襲来を無視したのは被災者とその地の行政および日本国政府である。

註5:
 台湾では植民した中国人が話す三つの方言が使われている。そのためかTVの主要な内容には字幕が出る。学校教育で使われる國語(北京語),台湾語(閩南語ともいい,対岸の福建省厦門などの方言),客家語(中・古代の北方語)である。そのほかには台湾先住民が話すAustronesian語族(台湾,Phillipine,Malaysia,Indonesiaなどの言葉)に属する言葉がある。


2011年5月14日 多様性こそが進歩の要

 時代遅れの老醜を晒す石原慎太郎東京都知事と双璧をなす,時代錯誤の大阪府知事橋下徹は戦前日本の復活を目指して,大阪の小中高校で“君が代”の斉唱時に教員が起立することを強制する条例を制定することにした。彼が率いる地域政党維新の会と自民党および自民党の内の宗教部会でしかない公明党が賛成すると思われるので,大阪府ではお上の手により時計の歯車を一世紀戻す作業が,大阪府民が気づかない内に進む。

 橋下や石原は,声だけは威勢がよいが裏では弱者切捨てに走った小泉純一郎を上まわる超右翼思想の持ち主である。もっとも小泉や石原・橋下等については,国民や都民・府民が彼等を選んだのであるから,彼等が行った政策の結果責任において,今後起るであろう不幸はすべて甘受していただかなくてはならない。
 歴史に学ばない日本人は,日本はすでに同じような道を辿って大陸での馬鹿げた戦争に突入し,その尻拭いのために英米と戦火を交える羽目になったことを忘れている。この敗戦後の苦境は,幸いにして中国共産党の毛澤東が無謀にも朝鮮半島で米国と戦端を開いたことにより,米国の対日政策が変り,朝鮮戦争特需が発生し,1950年代半ばには“もはや『戦後』ではない”(註1)という言葉まで飛び出すほど日本の景気は復活し,戦前の経済水準に敗戦後わずか10年で到達した。その後の高度成長時代の幕開けである。

 その結果,日本人は戦前の日本で何が問題であったかをきれいさっぱりと忘れ去ってしまったのだ。
 ちょうどその時期に青年期を迎えた石原は,弟裕次郎の人気に乗っかって当時の水準ならエロ本と言われる『太陽の季節』で有名になり,豪も戦前社会への反省がないまま戦前体制の復活を目指す右翼政治家になった。
 小泉は親代々の政治家の家系に育ち,その家系は当然ながら戦前も上手い汁を吸う側にいた。したがって,国民の痛みにはとんと気がつくことはなかった。小泉が総理就任時に騒いだ“米百俵”の考えなどは,かれの胸ポケットの飾りにすらならないうちに,打ち捨てられた。

 では,石原や橋下等の復古主義者の行動のどこに問題があるのであろうか。それは東京都あるいは大阪府の教師や生徒の多様性を摘んでしまうことなのだ。君が代に起立斉唱しないと罰するというかれらの考えは,生徒すべての行動を自分だけの考えで決めた規則に従わせるという発想でしかない。それはいつの間にか,自分から物事を考えて提案・行動するという多様性を規制してしまうのである。
 石原や橋下等の狭い了見で考える生徒しか育たなくなれば,かれらの小型版の人間しか日本では輩出しなくなる。それは,日本の進歩を大きく阻害する。多様性を“お上”の名の下に圧殺した江戸時代は,文化の進歩が遅かった。儒教道徳で支配した隣の清国や韓国でも西洋の進歩に大きく遅れを取ったのである。
 今,中国などは大きく進んでいるかのように見えるが,それらはすべて他国の物まねでしかない。後から人が切り拓いた道を追うのは速いのが当たり前である。彼等がここ50年で新規に提案し,全世界で歓迎されている品物や制度は一つとしてない。3,000年前の中国周王朝の創設期を理想社会とする儒教を統治思想としている国々の限界なのである。

 儒教は小さな閉鎖社会を統治する手法とてはなかなか有効である。自国民以外の敵がない状態で統治するには結構効率もよい手法と言える。実際中国共産党はそのような統治をしようとしている。
 しかし,日本の閉鎖社会を脅かした黒船や人類の存続を危うくする自然災害や病害に対処するには,いろいろなことを自由に考え実行に移す人材と体制が必要である。すなわち,古代社会に合せて現状維持を最適解とする儒教による統治体制は,危機に対応できないのである。石原や橋下等の儒教的統治で育った高校生は,今後の世界では使い物にならないのである。

註1
 この言葉は,1956年英文学者で評論家の中野好夫が雑誌『文藝春秋』誌2月号上で発表し,流行語にもなった。


2011年版完